June 22, 2017

歳をとってもそれなりに健康でいるために

最近、立て続けに、親しい方が健康を損ねたときく。

そこで、私が実践していることをメモ的に書いておきます。

私は、子ども時代は「20歳まで生きられない」と噂されたほどの病弱でした。
その後も、不調をごまかしながら生きてきた感じでした。
40歳台前半で、ひどい肺炎になり、死の淵を見た気がしました。
それから、自分の健康に真摯に向き合うようになりました。

以下に書くことは、いずれも当たり前のことです。
ただ、当たり前のことを、倦まずたゆまず続けることが、結局は、成果につながるわけで。

ポイントは5つ。
① バランスの良い食事
② 適度な運動
③ 十分な睡眠
④ 無理をしないこと
⑤ 原理主義に陥らないこと

順に記すと以下のとおり。

① バランスの良い食事
野菜をメインにして、薄味の食事を心がける。
とはいえ、肉も魚も摂るよ。
ジャンクフードは、年に数回のみ
おお、神よ、罪深き我を許し給え、と祈りながら食べる
   
朝 梅干しと緑茶 果物とヨーグルトとカフェラテ
昼 玄米のおにぎり1個(しっかり食べると眠くなるので)
夜 好きなだけなんでも食べる お酒も呑む(大好き)

② 適度な運動
野口体操を朝15分くらい
水曜日は1時間近くやるかな
土曜日はクラスへいってしっかり90分くらい?
  
なるべく歩く 1日8000歩目標
通勤は早足で
Apple Watchで歩数や運動量は「見える化」する
体が重いと感じたら、歩いて帰宅する(約1時間)。

③ 十分な睡眠
8時間ちゃんと寝る。
夕刻以降はあんまり刺激のつよいメディアにふれない。
寝る前に、iPhone・iPadでYouTubeとかみない。
紙の本の、やわらかい内容の本を読みながら寝る。
落語を聴きながら寝るのもよい。 
昼間も眠くなったら15分でいいから静かな場所で仮眠する。

④ 無理をしないこと
疲れたら、すぐやすむ。
2日で帳尻をあわせる。
遅くまで働いたら、つぎの日ゆっくり出勤、さっさと帰る。
呑み会は連チャンで入れない。
体調が悪かったらどたキャンも厭わない。
親しい人には、約束してもどたキャンするかもしれないからごめんね、といっておく。
その代わり、そちらからどたキャンすることも気にしないでね、という。
最近は、水曜日は自宅で仕事をする。
月火はたらく、水は家で仕事と運動、木金はたらく、土日は運動とリラックス。
仕事にせよ、家の行事にせよ、土日にがんばりすぎない。

⑤ 原理主義に陥らないこと
厳格な菜食主義とかマクロビオティックとか
糖質を一切摂らないとか
これだけダイエットとか
ぜったいに酒は呑まないとか。
そういう極端に走らない。
第1、楽しくないしね。

ぜったいに西洋医学のくすりは服まないとかも、いけません。
火事が起きているときは、まず、火を消さないと。

清潔志向も度が過ぎないように。
毒を体にいれないのではなく、少々毒が入っても平気なからだになりましょう。

健康にいいこともやり過ぎないように。
ぜったいに毎日*キロ走るとか、痛みに耐えてがんばった自分を讃えるとかやめよう。

私としては、暮らしも仕事も、たのしくやりたく、そのためのベースが、心身の健康と考えて、この10年ちょっと、あれこれ試行錯誤してたどり着いたのがこんなところ。

これくらいやっても、衰えるべきところは衰える。
避けがたき病もあるでしょう。
それは運命や寿命として慫慂として受け止めたいと思っています。

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April 30, 2016

ありがとう! メイ




March 25, 2002 - April 29,2016

2016年4月29日23時40分、メイが彼岸へ旅立ちました。
3月下旬に、肺水腫になって一時は危険な状態になったのですが、3日間の入院ですっかり元気になり、食欲もいつもどおりになっていました。
けれど27日の夜から急に体調がわるくなり、手を尽くしましたがおよびませんでした。

 2002年に動物写真家の森田米雄さんから譲り受けた世界でこれ以上なく可愛い(親バカ)のチワワ。
 
最初は家族に

 「ペットは飼ってもいいが、ペット中心の生活にはしない!」

といってたのに、真っ先に、この僕がメロメロになって、溺愛してました(ちなみに、このブログのタイトルの「撫明亭日乗」とは「メイを撫でているおじさんの日記」という意味です)。

甘やかしすぎたせいなのか、もともとの性格なのか、気が強くて、社交性がなくて、家族だけにしか気を許さず、時には家族にも牙をむく「ダメっ子」でしたが、ダメな子ほど可愛いのことばどおりでした。

小さい頃から、いろんな病気(尿路結石、子宮嚢胞、脱腸、頸椎ヘルニア、緑内障、心臓弁膜症)をして、避妊手術もして、小さいからだで、ほんとうによくがんばりました。

いまの住まいに引っ越してくるのとほぼ同時期から、子どもたちの中学生時代から、僕がいまの事務所を設立してから今日まで、14年間、ほんとうに「いるだけ」で、まわりのみんなを楽しませ、笑わせ、和ませ、癒してくれました。

   メイ、ほんとに長い間ありがとう!
   安らかに眠れ。
    

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April 03, 2016

書評『小倉昌男 祈りと経営』(森健  小学館)

Inori

小倉昌男さんは、僕の尊敬する経営者だった。

倒産寸前のヤマト運輸の二代目経営者として、逆境から日本に「宅急便」というサービスを生み出した手腕。
不合理な規制については、訴訟も辞せず、正攻法で行政と闘って許認可を勝ち得ていった気骨。
論理性。
巨万の富を惜しげもなく福祉に投じてヤマト福祉財団を設立し、全国の福祉施設経営者に自ら「経営」を教え、お小遣い程度しか支給されていなかった障害者の自立を支援した晩節の美しさ。

小倉さんのそうしたすばらしさについては、ご本人による名著『経営学』『福祉を変える経営』を初めとする、数多くの著作がある。

レコードに例えると、そうした輝かしい面が小倉さんのA面なのだが、この本は、小倉さんについて、これまで語られてこなかった知られざる「B面」を、丹念な取材によって明らかにしたいわば「裏面史」である。

森さんは、小倉さんが、福祉の分野においてあれだけの貢献をしながら「なぜそこまで福祉に力を注いだか」については、ほとんど語っていないことに疑問を抱く。

そして、会社関係者や私的な知人などから取材をしていくうちに、これまで語られてこなかった重大な秘密にたどりつく。

それを語ることはルール違反なので、ぜひ本を手にとって読んでいただきたい

この本を読んで、ますます小倉さんの素晴らしさを知ることになった。
読者は、小倉さんの孤独と絶望にも近い思いを追体験しながら、最後にもたらされる「安息」といっていい思いに安堵し、深い感動につつまれることになる。

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March 31, 2016

『手話を生きる〜少数言語が多数派日本語と出会うところ』 斉藤道雄



 何年かに一度、自分の固まった脳の外枠をバリバリと音を立てて広げられるような本に出会う。
 この本も、そんな本だ。

 著者は、元ジャーナリストでありながら、取材が縁で、ろう学校の校長に就任し、いまは理事長を努める人物。
 その学校「明晴学園」は、手話と口話のバイリンガル教育を進めている日本でほぼ唯一の学校。

  僕は、ろうの方々は、基本的に手話でコミュニケーションを取っているのだと勝手に思い込んでいた。
  ところが、日本のろう教育では、手話を用いることは基本的に禁止されてきた、という。

  ろう学校では、ひたすら聴者(耳の聞こえる人)に、ろう者を近づけるための教育が行われる。
  聴きとりは、唇の動きを読むことで。
  発音は、口のかたちを強制的につくらせて、発音させることで。
  
  しかし、完全なろうの人は、そもそも「正しい発音」を認識できない。
  認識できない音を認識するように読唇を強制させられ、認識できない発音を実現するために発語訓練を強制される。
  著者は、これを「アクロバティック」と表現しているが、僕には「原理的に不可能」、法律用語でいえば「原始的不能」な営みと思える。

 それだけではない。
 手話を用いることは厳しく禁ぜられ、ときには、手をしばり、叩くなどの方法を用いてまで、手話を用いることを禁じられていたという。ろうの両親が手話通訳を連れて、授業参観にきたら「有害である」として、通訳を排除された、というエピソードも紹介されている。

  結果として、ろう者は不可能を強いられることによる激しいストレスにさらされて感情を失い、また、知的な発達を妨げられる。

  そんな歪な教育が、日本だけでなく、世界中でまかり通ってきた。

  しかし、最新の言語学の研究によって、ろう者の間で自然に発生する手話は、体系的な文法を有するひとつの「言語」であるとの知見が示され、ろう教育の世界の潮流がかわりつつある。

  ろう者を、聴者に近づけるのではなく、ろう者自身のネイティブ・ランゲージである手話を第1言語として、それをきっかけに、第2言語としての日本語の読み書きを発達させようという試みが、行われはじめている。明晴学園は、そのさきがけ。

  著者の筆致は、その底に静かな持続する怒りを秘めていながら、あくまで冷静である。
  ある状態を少しでもよい方向に変えていこうとするために、人がとるべき態度・行動を教えられる。
  また、最新の言語学の知見にも、日本語手話の世界の豊穣さにも触れることができる。

  私の職場には、重度の難聴の者がいて、聴覚の障害に話題が及ぶことがしばしばある。
  そんなことから、興味をもって、ふと手に取った本なのだが、ことし一番の収穫だった。

  できうれば、ひとりでも多くの人にお読み頂きたい。

  購入はこちらから→『手話を生きる〜少数言語が多数派日本語と出会うところで』 斉藤道雄
 

     

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January 04, 2016

寒中お見舞い申し上げます。



寒中お見舞い申し上げます。

昨年10月に母啓子が亡くなりました。

法名 釈尼啓真

享年89歳で天寿を全ういたしました。
そのため、新年のご挨拶を欠礼いたしました。

母は恵那市明智町の農家の三男二女の次女として生まれ、2度の結婚をし、夫と二人三脚で建材業を営みつつ、3人の子を育て上げました。町で最初に女性として自動車運転免許を取り、後には大型免許まで取るなど進取の気性に富み、また、民謡・三味線・俳句などを楽しんだ社交的な性格でした。

平成19年に夫清が亡くなった後は、ひとり暮らしをしておりましたが、5年ほど前に、脳内出血を患い半身に麻痺が残ったこともあり、老人介護施設にお世話になっておりました。

9月に末孫の早紀の結婚の報告を聞き、それを待っていたかのように10月23日未明、枯れるように亡くなりました。

この年末年始は、母の定番料理だった「煮和え(大根と人参と昆布とお揚げを酢で煮和えたとてもヘルシーなレシピ)を再現したりして偲んでいました。いつになくうまくできたのは、母が無言で教えてくれたからかも知れません。

母は、仕事熱心であっただけでなく、美味しい料理を手作りすることや、趣味にも熱心で、人生を楽しんだ人だったと思います。

私たち家族も、母を見習って生きて参ります。
今年もよろしくお願い申し上げます。

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April 21, 2015

44年ぶりの入院顛末(補遺)



4月18日(土)
腸の造影検査(お尻からバリウム入れてレントゲンを撮る〜苦しい)の日。
待ち時間に、検査技師の方と雑談。

「経験したことのない痛みがあったら、がまんせず、迷わず救急車を呼んだ方がいいですよ。
 がまんしている間に、胃に穴が空いてしまう人がいて、そうなると、あとが面倒ですから。
 今回は、よい判断でした。」

とのこと。

検査の結果、ポリープ「かもしれないもの」が何個かみつかった。ただし、食物残滓とか便の残っているものが写っているだけかもしれないので、内視鏡で確認しておいた方がベターだということに。

もう「負けて、参って、任せて、待つ」(野口三千三語録より)という心境で、また、この際、徹底的にあちこちみてもらえ、という国府弘子姐さののアドバイスも効いていて、よろしくお願いしますということになる。

この日は、外出許可をもらって家にかえった。
食事をして、シャワーをあびて、メイをなでなでして帰った。

4月19日(日)
この日は、月曜日の検査に備えて検査食。
食事の合間をぬって、自宅と事務所にちょっとだけ顔をだして、掃除かたつけをする。
なんか、このところ修行僧のような生活で、心がすがすがしい。
新緑の美しさが、とりわけ胸に浸みる。

4月20日(月)
午後3時まで飲まず食わず。
先日、穴をあけた修習生向けのセミナーの課題の採点・添削をする。

3時半頃から検査。
自分でもモニター見ながら、先生の説明を聴く。
自分でいうのもなんだけど、きれいな腸だった。
「あるとすればこの辺なんだが、、、、」
と入念に診て頂いたが、結局

「何もないですね! 終わり! 
 これだけきれいなら、あと5〜6年は検査しなくてもいいくらい。
 もういつ退院してもいいですよ!」

 ということで、検査終了。

 今日は、家族は岐阜の母を見舞いにいってくれているので、ひとりで荷物をまとめて家に帰る。
 夕刻、帰ってきた家族と近所のいきつけのお店で、プチお祝い。

 ということで、11日間の入院生活が終わりました。
 
 また、調子にのって回転数あげすぎないように、そろりそろりと元の状態に戻れるようにいたします。

 皆さま、ありがとうございました。

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April 18, 2015

44年ぶりの入院顛末(完)




15日(水)
すこしづつ元気になっているのを実感する。
夕刻には熱も下がった。

16日(木)
回診
熱もほぼ下がってきたし念のため腸の内視鏡検査をして、それで問題なければ退院にしましょう、とのこと。

夕刻、看護師さんにお願いして自宅へ2時間ほど帰りシャワーをあび、メイと少し遊んできた。

妻が「院内にシャワーとないんですか」と聞いたところ

「ありますが、あんまりきれいじゃないからご自宅が近いならそちらへ行かれる方が・・・(苦笑)」とのこと。正直な方たちだ。

でかけるときに
「一杯ひっかけてこないように!笑」とクギをさされる。

シャワーをあびて心からさっぱりして、ゆっくり眠る。
体は、活動もしていないし毎朝もらう3枚の熱いタオルで清拭しているのであまり気にならなかったが、水のいらないシャンプーってのをしても髪の毛がレゲエのおじさんみたいになってきていたのでありがたい。食事といいお風呂といい、あるべきものがふつうにあるのがありがたい。

17日(金)
朝、本日、秋田地方裁判所大法廷で、尋問デビューとなるTさんに激励メールを。
事務所から送られてきたドラフトに少し意見を書けるくらいに気力も回復してきた。

今日は検査前日とのことで、検査食。
量が少なく、夜は流動食のみ。

一日用事が詰まっていて、顔を出せるかわからないといっていた妻が「報告したいことがある」と、午後やってくる。

米国のフィアンセ・ビザを取得できて、渡米準備中の娘が、昨晩、友だちにお祝いしてもらったのはいいのだが、二次会場でつぶれて云々というはなし。妻は、お迎えやらなにやら大変だったようだ。
日本の治安がよくて、お店の方が親切だったのに感謝し「酒のみ2人の娘だから仕方ないよ」というようなことで終わる。

その娘が夜やってきて面会時間終わりまで話し込んでいく。
昨晩そんなだったのに、今日も別の友人とランチしてきて、タイカレー二杯たべたとかいっている。若いねえ。

夜、検査のための緩下剤を飲んで就寝。

18日(土)
緩下剤のせいで、眠りは断続的になってしまったが、身も心もさっぱりだ。
国民健保3割負担で、断食道場兼人間ドックに行ったようなものですな。

もう少ししたら検査に行ってくる。

この間、個別に、あるいはFBのコメントで「いいね!」で激励して下さった方々、ありがとうございました。それぞれの皆さんに個別にお礼はできないかもしれませんが、とても励まされたり、考えるきっかけになったりしました。

『44年ぶりの入院顛末』は、一旦、締めさせて頂きます。

ありがとうございました。

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April 17, 2015

44年ぶりの入院顛末(3)

いま思えば予兆はあったし、それに気づいてもいたのである。

1か月半ほど前から、毎朝する野口体操の際に、みぞおちの左のあたりにかすかな違和感を覚えていた。1ヵ月ほど前に、事務所内で週1回している案件進捗確認のミーティングの際に、みぞおちのあたりに痛みを感じて、2分ほど時間をやりすごしたこともあった。

しかし、違和感はかすかなものであり、痛みは一過性のものであった。
そして、それ以外においては不調はまったくなかった。
むしろ10年前の自分、ここ数年の自分よりも健康な思いがして、主観的には活気があった。
この好調に乗じて、これまで公私にわたってやりたくやり残していることをやっておこうと考え、さまざまなプロジェクトを立ち上げ、着手したりもしていた。

しかし、みぞおち左の違和感は気になる。
近くのクリニックに相談にいった。

Dr.「筋肉が痛いんですか、胃の中がいたいんですか?」
僕「うーん、そう改めていわれるとよくわからなくなりますが、、、体操の時にしか感じないということは、筋肉のような気もしますが、しかし、腹筋を鍛えたときの痛みとはまったくちがうので、中のような気もするし、、、」
Dr.「まあ、胃薬呑んで様子をみましょう」

しかし、お酒も食事もおいしくいただいていたので、この胃薬は飲まれることなく終わった。

率直にいうと、ここで僕はガンを疑った。
僕は「患者よ ガンと闘うな」の近藤誠さんの意見にシンパシーを感じていて、定期健診はあまりまじめに受けておらず、ただ不調・異常を感じたときには、早めにさっさと調べてもらう、ということにしている。昨年兄を肺がんでなくしたし、司法研修所卒業25周年の集まりではほぼ同年配のTさんが胃がんで急逝したことを知った。刑事裁判教官のN先生が「ガンは自分でも気づけるはずだよ」とおっしゃっていたことも耳に残っていて、ここはきちんと検査してもらおうと思った。

長年にわたり顧問を努めさせて頂いているドクターのK先生に相談して、先生が副院長を務められておられるG医院で人間ドックを受けることにした。

その場で知らされるデータの数値は喜ばしいものであった。
肺活量などは、同年輩の150%超えであるといわれ、美人の看護師さんからほめられもした。
胃の内視鏡の検査がおわると、その場で内視鏡医の先生から

「ごくごく軽い、治療の必要もない炎症の跡がありますが、ほかはまったくきれいです。
  生検の必要もありません。」

とのことであった。

いま思えば、ここでまちがいをしたと思う。
普段の僕なら

「データには表れなくても、症状はある。
 この《からだの実感》を大切にしなければいけない。
 では、何をどうすれば、、、」

と考え、実践したと思う。

しかし、この時は、その場で伝えられる各検査項目のよき結果に浮かれてしまった。

「これなら、もう少し加速しても大丈夫だ」というようなふうに考えてしまったわけである。

いま思えば、その時すでに、漢方でいう「気血の滞り」というようなものが胃に生じていたのだと思う。一番必要なのは、休息だったろう。TO DO LISTを整理して、捨てるものはすて、人に任せられるものは任せ、先送りできるものはして、時間にすきま風を吹かせてやらなければいけなかった。鳥のさえずりを聴きながら、ひねもすのたりのたりかな、という日をつくるべきだった。

しかし、僕はすでに立ち上げているプロジェクトを加速させることばかりを考えた。
手のかかる倒産事件も新たに手がけることになり、土曜日に出勤して関係者を説得し、日曜日も用事をこなし、月曜日の始発で秋田の工場へ向かって操業停止を宣言して従業員を解雇し、幹部社員を再雇用して事後処理の打合せをし、取引先を連鎖倒産させないようにさまざまな手を打ち、行き帰りの新幹線の中でもメールで指示を出し続けるというようなことをしていた。

こうした日々のなか、事務所のチームの食事会、懐かしい人たちとの会合、新しく知り合った魅力的な人生の先輩方からのお誘いなどが続き、普段の夕食ではありえない量の食事とお酒をいただくことが週に何度かあった。

そして、急激な気温の変化。
加齢。

僕のからだは、これらの要因をすべて受け止めた上で、4月10日に「休息宣言」をしたのだと思う。

自分の実感を大切にして今回のことを省みればそういうことになる。

ひとは自分の得意技で致命傷を負う。
一病息災の逆を地で行くような話であるが、忙しく暮らす方々には参考になることもあるかと思い、駄文を弄した次第である。

といいながら、まだ入院中に、朝からこんな長い文章を書いているのが体に悪いんだってば(( ̄∇ ̄)!

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April 16, 2015

44年ぶりの入院顛末(2)

13日(月)
朝、担当の看護師さんに、胃カメラを受ける自信がない、と訴える。
師長さんと相談して「では、キャンセルに」ということになる。
自分としては、ドクターを説得しなきゃいけないか、と思っていたが、ドクターは今日は病院にいらっしゃらないということで、師長さん判断で決まって、すっかり気が楽になった。
自分の仕事を省みて、依頼者に「なんでも気楽にいってね。クレームも含めて」っていうけど、なかなか、大変なことなんだな、と実感する。

この日は、司法修習生に対する講義を担当していたが、キャンセルせざるをえず。
大変心苦しいことになってしまって、東京弁護士会の事務局の方、代役の先生、事務所の柳田さん、預かっていた起案を届けてくれた妻などにも、大変迷惑をかけた。
このような事態が、あの3年間の司法研修所教官時代になくて、ほんとによかったと思う。

この日の午後くらいから、ようやくiPhone、iPad、Kindleなどをいじくる気力が、ほんの少し出てくる。
10分いじって、50分ぐったりっていうようなペースであるが。

本を読むのはつらいので、YOUTUBEで落語を聴く。
喬太郎、一之輔、小三治など。
亡くなった兄が最後のころ

「寝るときは落語を聴きながら寝るんだ。夜中に目が覚めてしまうと、また、落語。最高の導眠剤だ。」

といっていたことを、いやおうなしに思い出す。
これに限らず、健康を損ねて、兄のありようが自分の行動規範になっていて、時に会話している思いがする。

落語を聴いては、うとうと、起き出してはメールチェック、最低限の返事だけして、またうとうと、また落語、みたいな繰り返し。

夕方になってFBに投稿。FBに報告記事を。自分の不健康を投稿するというのも気が引けるが、ま、いいや、という気分。

本も読もうと思ってKindleで以前に購入していた林望先生の「謹訳 源氏物語1」を読む。
死ぬまでに読めるかな、どうかな、と思っていた、光源氏の物語にふれることができた。いまのことばでいえば、人妻趣味、のぞき、不倫、小児性愛、第1巻だけでも出ますなぁ。これを雅(みやび)に見せているのが、和歌なんですね。療養中に、ゆっくり、じっくり全巻読めたらいいなと思う。

14日(火)
回診。
三分がゆと軟らかいおかず(胃潰瘍食)なら完食できるようになった。
しかし、38度近い熱が下がらない。
抗生剤を変えて、木曜日に、退院の可否を判断しようということになる。
 
この深川T病院は、建物も設備も古くてお世辞にもきれいな病院とはいえないけど、スタッフの皆さんはみんな気持ちがいい人ばかりで、入室されるたびに軽口を叩いていくのが、いかにも下町の病院らしくていい。
 掃除のおばさんが、窓を開けるのにも、東北なまりで
「こご、空けてやろっか? ひさびさにいい天気だぞ。」

 別の人が
「拭き掃除にまいりました〜。とっても適当な拭き掃除で〜す。
 いいかげん、いいかげん。
 ちゃんとした拭き掃除はまた別にきまーす。」

 みたいな調子で唄いながら?掃除している。

 看護師さんもみんなやさしくしてくれる。

 和む。
 昭和ものの映画の登場人物になった気分だ。

(続く)


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44年ぶりの入院顛末(1)



4月10日 朝
なんとなく、胃のあたり違和感があり、遠くの方で痛みも感じる。
午前中の用事ははずせないのであるが、午後は、わがままをいわせてもらえば調整できる予定であったので延期させてもらうこととし、早めに家に帰って横になっていた。

しかし、眠ることもできずお腹の違和感は増すばかり。みぞおちのあたりに石を呑んだような心持ちがして、その石がだんだん大きく重くなる気がする。そうこうするうちに、痛みの輪郭がはっきりとしてきて、どんどん強くなってくる。あれよあれよという間に、いままで経験したことのない激痛となり、意識もかすんできた。家にはメイしかおらず、到底自力では病院までいける自信がない。自分で119番する。
次いで妻に電話する。この時は、すでに会話も十分にできないような状態で心配をかけた。かろうじて、メイをケージに入れることと、事務所に最低限の指示だけはして、救急隊の到着をまつうち、妻と救急隊、そして娘が相次いで現れた。

救急隊員の方の質問に答えているうちに嘔吐感が生じ、嘔吐。食物残滓はなく、透明な液体のみ。
みぞおちのあたりの痛みということで念のため心電図を取る。異常なし。

いきつけの病院はありますか、といわれるが、救急医療や入院に対応しているところはないで、ない、と答える。

希望の病院といえば、妻の両親がお世話になっている墨東病院だが、救急隊員の方が「あそこは救命の必要がないと返されちゃんですよね」ということで、結局、自宅からほどちかい、深川T病院へ搬送される。折しも雨。救急車に乗る際、冷たい水滴が顔に、手のひらにあたる。

問診、触診、血液検査、CT、途中でまた激しい嘔吐。

「結論からいうと、それほど心配はない。」

それがT院長の第一声であった。
血液検査の結果、白血球の増加はない。
原因は現時点ではなんともいえないが診断名としては「急性胃腸炎」ということになる。
脱水症状が心配なので「魔法の点滴」を4本くらい打つことを勧める。
そうすれば、明日の夕方にはよくなるのではないか。
なんなら、自宅へ帰って様子をみてもよい。どうしますか。

病院嫌いの自分ではあるが、自宅で一夜を過ごせる自信はなかった。
入院をお願いして、急なため3人部屋の真ん中のベッドに通される。
両脇の方は、もはや会話もできないお年寄りで、ひとりの方は胃瘻も施しておられ、ベッドの両脇から、そして室外から苦しげなうめき声、叫び声が一晩中聞こえた。
ずっと点滴をつけて横になっている。
嘔吐する、楽になりまどろみかけるとまた嘔吐の繰り返しで、ゆっくり眠れる時間はほとんどなし。下痢はまったくない。

翌11日(土)、二人部屋へ移動。事実上の個室。
相変わらず、嘔吐を繰り返す。
黄色い胃液ばかりだったが、夕刻、茶色く変わる。看護師さんの話では、胆汁が混じっているのでは、とのこと。
回診があって、まだ症状が治まらないなら、月曜日に胃カメラ撮ってみようか、といわれる。
実は、10日ほど前に人間ドックにかかって撮っていたし、現在の体力・気力では検査のメリットよりダメージが大きい気がしたが、それをドクターにいう気力がない。

13日(日)
この日の午前で嘔吐がほぼ収まった。
しかし、まったく食欲なし。
無理してもお粥3さじも食べられず。
水も受け付けず。

14日(月)
依然として脱力感、集中力の欠如あり。
事務所からのメールのうち報告メールと、判断の必要なメールを選別することも負担でならない。
報告だけのメールはすべて省略してくれるように、ふだん、判断を求められているケースもアソシエイツの判断でなるべく進めるようにお願いする。
ドクターは全がゆOKとのことだったが、食べられないので3部がゆにしていただく。
少しづつだが体力も集中力も戻ってきた感じがする。
しかし、まだ本をよむ元気もない。

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