« July 2010 | Main | September 2010 »

August 31, 2010

空気が透明になりました

691023DD-D849-4F62-A7EF-83403BFB2C73

9月2日(木)
家族が東京へ戻ってくる。
母は、相変わらず。

9月3日(金)
芯がつかれる一週間だった。
夜、呑みすぎ。

9月4日(土)
ひさびさに野口体操。
2時間体を動かす。
その後、みさきへ。
時々風を通さないといけないので。

9月5日(日)
6時起きして、庭の手入れ。
4時間汗だく。
昼過ぎには帰宅。妻の歌のレッスンのため。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

ふたりぼっち

BCA2B41F-8E9C-455C-84BD-6543EB967053

8月29日(日)
3時過ぎに東京へもどり、事務所で仕事。
夕方、ひとりで自宅へ。
メイが狂喜して迎えてくれる。

この日から、木曜の夜まで、ひとりと一匹暮らし。
朝起きて、散歩させて、ごはんやって、ご飯食べて
シャワー浴びて、洗濯機まわして、洗い物して、ゴミ出して、
クリーニング出して、とかやっていると、なかなか大変。
留守番ばっかりじゃ、かわいそうだから、午前中は自宅で仕事をする日を多くした。

たまには、事務所へ行くのを遅らせて、自宅で5~6時間同じことに専念するのは
精神衛生によさそうである。

母についてくれている妻と子どもたち
一緒にいてくれるメイに感謝の日々である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 28, 2010

再び多治見へ

E4AB1BC4-419F-4DE7-9084-58266AB5590C

25日(水)から27日(金)まで
やたらに忙しい。
新規相談だけで8件

28日(土)
家族4人でふたたび、県立多治見病院へ向かう。
いつもは中央高速を使うが、ナビに任せると東名へいけというので
東海道53次をしのびつつ、一路、西へ向かう
以前は名古屋までいって戻るような感じだったが、豊田あたりから北上するルートができた

母は、一歩進んで、半歩下がる、また一歩進んで、ひとやすみ、というようなところか。
子どもたちが、一生懸命、声をかけたり、手を握ったり、顔を拭いたり、音楽をかけたりする。

夕刻は次兄とその長女と食事。春巻きとなすの煮浸しとサラダとカレー。おいしかった。

25日(日)
ふたたび病院へ。
甥夫婦 母の姉(伯母) 父方の甥などが見舞いにきてくれる。
甥夫婦の下の男の子が、暴れん坊でいろんな人に噛みついたりするので、妻が一喝する(3喝?)
甥夫婦も叱られている。
妻が、母に「おかあさん。ガツンと言ってやりましたよ!」などというと
母が目を開ける。皆で大笑いする。

私だけ、早めに帰京。
新幹線の中で一仕事。

今日からしばらくメイと二人暮らしだ。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 24, 2010

母 倒れる

19

22日(日)
日曜日ではあるが、出勤しようと思い、その前に、東京堂書店でぶらぶら書棚を見ていたら、母が倒れて緊急入院をしたとの報。
あちこちへ連絡を取って、妻と急遽、実家へ向かう。
地方はどこでもそうだが、車がないと、不便きわまりないので、中央高速をひた走る。

ICUで10分だけの面会を許された。
会話はできないが、指を握らせて、問いかけをして「わかったら、ぎゅーしてください」というと、握りかえしてくる。

不安なまま、実家へ帰る。
10時半過ぎ 長兄もやってくる。

23日(月)
ICUから出ることができて、重症個室?というところに移動した。
I先生が、PCで画像を表示しつつ、くわしく説明してくださる。
昨日の、T医師の説明は(伝聞だが)、かなり厳しいものだったようだが
I先生の説明は、とても丁寧で、クールではあるが、ポジティブな表現をしてくださるのが救いになる。

ひとりで身の回りのことができるまで回復するかどうか。
その可能性が、医学的に5%だと仮定して
「可能性はほとんどない」といわれるのと
「予後には大きな幅がある。可能性がゼロではない」といわれるのでは、受け止める側の気持ちのありかたに、大きなちがいがある。
突然のことで、ショックを受けている家族にとっては、重要な問題だ。
そのことで、家族の笑顔が、わずかでも増えれば、それは、患者本人の回復にとってもマイナスではないだろう。

自分の仕事でも心がけていることではあるが、説明される側になって、あらためて、そのことに思いをいたす。

また、今後の展開について、わかりやすく図示された文書があれこれ準備されているのもすばらしい。
部屋もぴかぴかで、真っ白ではなく木目が多用されている。
いつもながら、優れた病院に来ると、とても勉強になる。

夜は、次兄夫妻と、実家でたべる。
みな、昨日とはうってかわって朗らか。
途中、次兄の次女から電話があり彼氏と一緒だとのことなので、
「彼氏を連れて、ここにこい!」と命じ、若いカップルをさかなに盛り上がる。

夜、Tさんが病室に泊まってくださったことを知る。深謝。

24日(火)
朝、病院へ行く途中、Tさんと電話で情報交換。
「はっきりはしないけど、ことばも『おはよう』とかいってみえますよ。酸素吸入の管がいやみたいで、自分で取ろうとされてもいますよ」とのこと。

妻とふたりで付き添っていると、ネガティブ表現者のT医師がやってきて
大きな声で「近藤さーん」と呼んで、反応がないとみて
「ふん。だめだな。」
「肺炎が心配だ。ほとんど、必発といってもいい。」
「人間は立って歩く動物だから、こういう風に寝ていると、あちこち不具合がでるんでね」
などといわれる。

以前の私ならば

「なんだ、その口の利き方は?」

くらいいったかもしれないが、ここ数週間は一時的に人間ができているので

「手を握って問いかければ、こちらのいうことは理解していることがわかりますよ。
 その反応も、強くなっていますし、はっきりは発音できないけど、ときどき言葉も出ています。
 一昨日より昨日、昨日より今日。すこしつづ、良くなっているのがわかります。」

 とだけいう。

 T医師は、何もいわないで出て行ってしまった。

 もう、リハビリがはじまる。
 本人に意識障害があっても、車椅子に乗せるなどして、刺激を与えるとのこと。
 医療の世界は、日進月歩で進化している。

 2時過ぎ、帰京の途に着く。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 15, 2010

花火 一同再会

18_2

14日(土)
実家は、標高300メートル以上のところにあって、夏は涼しい、と思っていたのだが、すごい湿度。
じっとしていても、肌がべとべとする。
午後3時すぎから警報が出るほどの豪雨。

4時過ぎから、兄弟たち一家が集まり始めて、5時半頃から宴会。
男性陣が、ひとり2品ほどつくって、みんなで食べ、かつ、呑む。
7時半から、恒例の花火大会。
1時間にわたって、すばらしい花火がつづく。新作が多くて、すごかった。
メイは、すっかりおびえてしまったが。
花火中、甥のむすめの かずき がしきりとちょっかいを出してくる。
ちょっかい出し返すと、ふてくされているが、またちょっかいだしてくる。

21時30分 同級生の集まりに
ゆみ ようこ なおこ おさむ せいじ あと自分の6名
12時ころまで話して帰宅


| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 14, 2010

帰省2010夏 絶望的な刑事司法

17

 先月末から、日記的なことを書いていないので、ざっくりまとめて。
 
7月25日~30日 ケニア旅行
7月31日 1日遅れで帰国
8月1日  帰国して、そのまんま事務所
8月2日(月)から12日(木)まで 大忙し
 この間、新しいWebSiteを開いて、グーグルとヤフーに広告出稿 その修正
 一橋大学からエクスターンシップの受入
 以前からの件の作戦会議、新件の相談がめじろおし
8月13日(金) ひさびさに家族全員で帰省
 
 帰り道に、

 リクルート事件・江副浩正の真実 を読み継ぐ

 江副さんが受けた取り調べの一場面
 取り調べているのは、東京地検特捜部の神垣清水検察官である。

《「お前は嘘をついていた。眞藤はさっき落ちた!眞藤はお前から直接電話を受けたと話している!これまで俺に嘘をついていたな!俺にこんな態度を取ったのはお前が初めてだ!」
 いうや否や、私の椅子を窓側の横から蹴り上げた。その勢いでキャスターが横にすべり、私は頭から反対側に転げ落ちかけたが、素早く検事が反対側に回り私の体を支えた(中略)。
 検事はたたみかけるように怒鳴った。
「立て!窓側に移れ!」
 取調室の窓側で、私は検事と向き合う形となった。
「俺に向かって土下座しろ!」
 検事は私に殴りかからんばかりの剣幕であった。恐怖心から抵抗できず、私は屈辱的な思いで床に座った。命じられるままに、検事に向い手をつき、頭を下げた。そのような姿勢を続けているうちに、私は、検事のマインドコントロール下に入っていった。》

 東京地検特捜部出身で「闇社会の守護神」といわれた田中森一弁護士が、自分の思い出話で、これに似た取り調べをしたことを書いていて、これは田中さんのキャラがもたらしたものだと思っていた。

 しかし、本書を読むと、リクルート事件の関係者は、江副さんに限らず、ほとんど全員が、みな、これに類する取り調べを受けていたことが、わかる。

 当時の東京地検の布陣は以下のとおりである。

 検事正  吉永祐介
 次席検事 山口悠介
 特捜部長 松田昇
 副部長(主任検事) 宗像紀夫
 副部長 堤守生 斉田国太郎
 副部長 高野利雄 上田廣一

 賄賂・労働省 熊崎勝彦 ほか
 NTT  佐渡賢一 ほか
 文部省 樋渡俊秋 ほか
 株譲渡 神垣清水 ほか


 この描写が江副さんの創作ではないことは、同じく元特捜部の検事だった郷原信郎さんの著作を読んでもわかる。郷原さんは、特捜部は人間の生きる環境ではない、といって検事をやめて、いまは検察のあり方に粘り強く警鐘を鳴らしておられる方だ。

 まがりなりにも刑事事件に携わっていれば、特捜部の事件でなくても、同じような目に遭う。
 
 捜査側は、自分の描いたストーリーに沿って作成した供述調書にサインせよ、と迫る。
 「事実とちがう」というと、おどし、すかし、泣き落としをされる。
 それでも「ちがう」というって署名を拒否すれば

 「じゃあ、ずっとここから出られない。お前の会社も潰してやるし、家族の生活も路頭に迷うことになる。それでよければ、ずっとそうしていろ。」という。

 場合によっては、弁護人にも圧力がある。
 関係者から話をきいて、捜査機関に不利な上申書を出したら「証拠の偽造だ」といって逮捕されてしまった弁護士もいる。

 これを「人質司法」といって弁護士は批判し続けているのだが、こういう状況についての裁判所・裁判官の認識や感度は極めて鈍い。

 私が司法試験の受験中、平野龍一先生が「日本の刑事司法は、かなり絶望的である」とお書きになっていたが、その状況は現在も変わっていない。

 私には、むしろ、その頃より悪くなっているように思える。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 09, 2010

明日吹く風は

R0012783

ケニアは最高だった。
マサイマラの草原であらゆる種類の動物をみて、夜明け、爽やかな風、夕焼け、神々しく明るい夜空と高原の冷気を堪能した。

写真はこちらです。未編集で768枚あります。
お暇な方のみどうぞ。

帰ったら、みんなにケニアを勧めようと思っていた。
旅は、自分の思考や経験の枠組みから解き放たれるためにするものだが、ケニアほど、それにふさわしい場所はなかった。

ナイロビに戻って、ジョモケニアッタ国際空港から帰国の途に就こうとしたところで、大騒動がはじまった。

ナイロビの1日観光を終えて、平成国際大学で日本語を学んだという現地人のガイドさんが帰り、荷物のセキュリティチェックも終えて、チェックインをしようとした。
出発時間の4時間以上前のことである。

後にクリスティンという名であることが判明したその女性は、気だるく作業をしていたが、キーボード横のくちゃくちゃのハンケチを手にとると、鼻をかみつつ何処かへ消えてしまった。ちょいと失礼しますも、何もない。

10分ほども待たされたであろうか。帰ってくると、お待たせしましたも何もなく

オーバーブックしたので今日の便には乗れません。
明日の同じ便なら乗れます。
どうしますか。
あるいは、バンコク経由ではなく、香港に行くという方法もあります。

もちろん英語。ケニア訛り。いちじるしく聞き取りにくい。
感じとしては、敬語なんかではない。
申し訳ありません、の一言もなければ、乗継便の変更のこと、宿泊のこと、補償のこと、その他もろもろ、何の説明もない。

なんだと!
妻にいわせると「おとうさんの持ち前の性格と努力で」、この後、数時間におよぶ、ケニア訛りの英語と、日本訛りの英語によるバトルが展開された。

この間、態度の悪いクリスティンは、我々から預かったパスポートを落として、紛失する、という失態を重ねもした。
それを拾った白人の学生ぽい人が、写真を見て、妻を探して届けてくれたのでことなきを得たが、われわれの怒りは、より一層燃え上がったことは、いうまでもない。

ケニア航空の社員たちは、謝罪をする、全体状況を説明する、人に何かを求めるとき(パスポートを預かる、サインを求める)に、目的を説明して承諾を求める、などの、手順を踏むということが一切ない。

よって、その都度、ジョモエッタケニア空港には、私の怒号が響き渡っのであった。
この旅行中、各所で ニイハオ といわれて、愛国心を損なわれていた私は、日本男児の意気地を見せつけてやる、という、藤原正彦的気概に燃えて、戦い続けたのであった。

しかし、結局、当日便には乗れなかった。
市内高級ホテル スイート24時間滞在4食付き
補償金ひとりあたり300米ドル
翌日便のボーディングパス
以上を確保した。

しかし、バンコクからの乗り継ぎ便については、彼らは「自分たちの責任ではない」というのであった。
ふざけるなよ!
上の条件は、とりあえず受け容れるけど、それ以上の権利を放棄したんじゃないからな。
そういって600ドルを受け取った。

ここまでで、当日の戦いは、翌日に持ち越されることになった。
すでに日付は変わろうとしていたからである。

ホテルの確保のために、到着ロビーの旅行代理店まで連れて行かれた。
手続が終わらないうちに係員は「後は自分でやって」といって消えてしまう。
ようやくホテルに見せるバウチャーを発行してもらった。
どうやってホテルへ行くのだ、といえば、「そこ、右に曲がって、また右に曲がるとバスがいるから」という。
オーバーブックが多すぎて、まとめて運ぶことになっていたのだ。
運転手は、乗って待ってろ、といったきり、数人の仲間と雑談している。
待てど暮らせどバスは出ない。
ナイロビの郊外の空港の片隅の真っ暗なところで、妻とふたり、不安を抱えて待つこと40分くらいか。
いきなり別のバスにのれ、といわれて、乗り換え、市の中心地に向かうことになる。

乗り換えたバスには、アフリカの他国から来たビジネスマンらしき人がおおぜい乗っている。
みな黒人である。
妻は、隣に座った人に I'm angry ! とか言っている。
私も妻も、彼が同調してくれると思っていた。
ほんとにひどい話だ、と。

しかし、彼が言ったのは

You are lucky. Tomorrow is another day.

ということばだった。
ラッキーじゃないか。明日は別の日さ。

なるほど。
私は、そこでモードを切り換えることにした。
自分の6時間に及ぶ戦いを恥じたわけでも反省したわけでもない。

起こった出来事を変えることはできない。
ただ、それに対する反応を変えることはできる。
旅行をただで一日延ばして、スイートに泊まって、のんびり一日過ごすことができる。
食事もただ、ジムも使い放題。
危険なナイロビだけど、それはそれで楽しもう。

その後も、成田に着くまでには、数々の、乗り越えなければならない事柄があった。
搭乗券を持っていても乗れるかどうかはわからない、といわれた。
ホテルにお迎えが時間どおりに来るかどうかは、まったく不安だった。
食事の度に事情を説明しないとクーポンはもらえなかった。
空港での荷物のチェックインでは、まちがった便名を記載されて、バンコクで荷物は迷子になりかけた。
搭乗ゲートは予告なく変更された。
ただ、保証しないといわれた、バンコク-東京便は変更されていた。
しかし、その手数料は支払われておらず、バンコクで、ケニア航空とタイ航空に折衝させねばらななかった。

あれこれ手を焼きながらも、バンコクについた。
アジアはすばらしい。
空港内で長い時間を過ごして、乗り換え、とうとう成田に着いた。
日本はすばらしい。

自分が変化したことを実感した旅だった。
懲りたなんて、ぜんぜん思わない。
次はムンバイへでも行ってみよう。

旅の途中、ずっと読み続けた本。
偶然にも、帰路のケニア航空の前の座席の黒人の女の子も読んでいた。
バンコクで降りるとき

ねえ、同じ本だよ。こっちは、日本語版だ。

と話しかけると、隣のお父さんらしき人が

いい本だよね。僕はもう読んだ。

と応えてくれた。

アフリカへの旅行に、これ以上、つきづきしい本もなかった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« July 2010 | Main | September 2010 »