« July 2011 | Main | September 2011 »

August 28, 2011

穏やかな週末

1314521188753.jpg

27日(土)
 午前中 安愚楽牧場問題に関する「終結宣言」的コメントを書く。
 書きながら気づくことが、いろいろあった。
 というか、考えるということは書くことを通じてしかできない。

 少しだけ午睡して、野口体操へ。
 ゆっくりと体をほぐすことができた。

 明日からNYCへ語学研修へ行く娘と妻と待ち合わせて、送別のためお寿司屋さんへ。
 おいしく楽しい夕べ。遠くに隅田川の花火の音が聞ける。

28日(朝)
 ハリケーン、アイリーンのせいで、娘の乗る予定だった飛行機が(ていうか、アメリカ東海岸行きの1万便?が)欠航になった。
 一昨年は旅行会社がつぶれ、昨年は実家の母が倒れ、今年はハリケーンがやってきて、むすめの夏やすみは毎年なにかある。
 娘に頼まれて「野口体操のマッサージ」を施す。こっちは汗だく。

 娘がいるなら、妻の母がランチをしようというので、みなでお昼。ひとりだけ、ビールをいただいて、また、大切な本を読みながら、いつしか午睡。

 めざめてまたメイと散歩。

 帰ってきて、ビールを飲もうかどうか迷って、ノンアルコールビールを飲んだ。
 そしたら、しばらくしたら、体が熱くなってきた。
 味覚に脳がだまされているらしい。
 おもしろい体験。

 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 27, 2011

Hard days and Nights

1314396823754.jpg

24日(水)
11時 S社の債権者集会 例によってSR銀行は棄権 期日は続行となる。
11時50分 Sさんの件 Iさんが静岡県からでていらっしゃることになっていたのだが電車に乗り慣れていない、ということで、大幅に遅参され、なんだかせわしないミーティングとなる

その後、ミーティング3件

25日(木)
所内ミーティング4つ
午後4時からWS社のMさんのコンサルティングをうける
事務所のOさん、Uさんも一緒
いつもながら目を開かされること多し
終わったあと、奥さんも交えて会食
こちらも楽しかった

26日(金)
ミーティング2
銀行口座開設 1
弁論準備期日 1
会食 1 新橋の鮎正にご招待いただいた
 最初から最後まで鮎がからむが、これがおいしいし、飽きさせない
 すばらしい! Fさん、ご馳走様でした!

 今週は、安愚楽牧場問題でつかれたな。
 内田樹先生が、どこかに「自分は、自分の発表したことに、どんだけ批判されても反論はなしない。反論は、最初の文章に含まれているから」と書いておられたが、その意味が身にしみてわかった。
 意図的にせよ、無意識的にせよ、誤読しては文句を繰り返されてもねえ。

 家族(メイを含む)とか、趣味とか、健康法のありがたさも、また身にしみて感じましたよ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 25, 2011

スティーブ・ジョブズによる祝辞 2005年6月12日 スタンフォード大学

1314283065684.jpg

 スティーブ・ジョブズがアップルのCEO からの引退を表明しました。
 2005年にこのブログで訳した、スタンフォード大学での卒業式の祝辞を再度、記します。


 今日、世界最高の大学のひとつから巣立つ皆さんと同席できることを光栄に思います。私は大学を卒業していないので、今日は大学の卒業式に最も近い日、ということになります。皆さんに私の人生から、3つの話をします。そう、大げさなことじゃありません。3つだけです。

 最初の話は《点と点をつなぐ》ということです。 

 私はリード大学を半年で退学しました。でも、それから18ヶ月くらいは、本当に大学へ行かなくなるまで、もぐりで大学をうろうろしていました。じゃあ、私は、なぜ大学をやめたのか。


 私が生まれる前のことです。私を生んだ母は、若い未婚の大学院生でした。私が生まれたら養子に出すことにしていました。彼女は、私の養親は、大卒でなければならないと決めていました。それで、ある弁護士とその妻が、私を養子にすることになっていました。ところが私が生まれたら、彼らは「やっぱり女の子がいい」といいだしたんです。それで、順番待ちだった私の両親が、夜中に電話を受けるはめになりました。

 「思っていたのとちがって、男の子が生まれたんですけど、欲しいですか?」。
 両親は答えました。「もちろん」
 実母も後で知ったことですが、私の母は大卒ではなかったし、父は高校も出ていませんでした。だから、実母は、最初、養子縁組承諾書にサインをしませんでした。でも、両親が、必ず私を大学に行かせると約束して、実母は、養子縁組に応じたんです。

 17年後、私は大学に行くことになりました。でも、愚かにもスタンフォード並みに授業料の高い大学選んでしまい、庶民の父母は、私の授業料のために、貯金をすべて使い果たすことになりました。
 
 私は、半年で、大学は無意味だと思いました。自分が何をしたいかわからないし、大学が何の役に立つのかもわからない。なのに、両親は生涯かけて貯めた金を使い果たしてしまった。だから、大学は辞めると決めたんです。それでも、何もかもうまくいくと信じて。

 実際は、びくびくものでした。でも、思い返せば、人生最良の決断でした。
 面白くもない授業に出ないで、興味のある授業だけ聴けるんですから。

 色気なんてありませんでした。寮に部屋がないから、友達の部屋の床に寝ていました。食べ物のために、一本5セントのコーラの瓶を集めました。日曜の夜は7マイル(11.2km)歩いてハレ・クリシュナ寺院まで行って、おいしい食事を恵んでもらいました。

 楽しかった。興味と直感のままに、やりたいことをやっていました。後になって、それらが金に換えられない価値のあることだって分かったんです。たとえば、こんなことです。

 リード大学は、当時、米国内で最高のカリグラフィ(飾り文字)の指導をする大学でした。学内のいたる所、ポスター1枚から戸棚に貼るラベルまで、1枚1枚、美しい手書きのカリグラフィで書かれていました。私は大学を辞めて普通のクラスには出なくていい身分です。それで、カリグラフィの授業に出て勉強することにしたんです。セリフという書体やサンセリフの書体を覚えて、異なる書体の字間をどうやって調整するかとか、素晴らしいフォントを美しく見せるために何が必要かを学んだりしました。カリグラフィは美しく、歴史があって、科学では捉えることのできない繊細さを持つ世界で、実に魅力がありました。

 こんなことには、人生における実用性のかけらもありません。
 でも10年経って、初代のMacを設計している時、すべてを思い出しました。私たちは、いろんな書体をマックに備えるよう設計しました。それは、美しいフォントを備え、字間調節機能を持った最初のコンピュータになったのです。


 もし私が大学でカリグラフィのコースを取らなかったら、マックは複数の書体も、字間調整機能を持つフォントも備えることはなかったでしょう。ウィンドウズはマックのパクりですから、パソコンがそうした機能を備えないままになったかもしれません。私が大学を辞めなかったら、あのカリグラフィのクラスを取らなかったら、パソコンは、今のような素晴らしいフォントを備えていなかったかもしれないのです。もちろん学生が将来を予測して、今していることと将来なすべきことを繋ぐことなどできません。でも10年後に振り返ってみれば、はっきり繋がるんです。

 もう一度いいましょう。あらかじめ将来を予測して点と点をつなぐことはできない。振り返ったときに、それらを繋げることができるだけです。だから、今していることが、どんなかたちにせよ、将来に繋がることを信じるしかない。信じるものを持つしかない。本能、運命、命、業(ごう)、なんでもいい。私が信じてきた、それらが、私の人生に差異をもたらしてきたんです。

 次にお話しするのは、愛着と喪失に関する物語です。
 私はラッキーでした。人生の早い時期にほんとうにやりたいことを見つけたからです。ウォズと私は二十歳の時に、うちの両親のガレージでアップルを立ち上げました。懸命に働いて、ガレージに二人きりから、10年後には4000人の従業員を抱える20億ドルの企業に成長しました。そして、私たちは、最高の製品 マッキントッシュ を売り出して1年後に30歳になりました。
 それから、私は、会社を馘首(くび)になりました。何が悲しくて自分がはじめた会社を馘首になるんですか? 
 私は、会社が成長したので、我々と共に会社を経営してくれる才能あると思った人物を雇ったのです。1年かそこらはうまくいきました。でも、我々の未来に関する考え方はずれはじめ、最後には仲たがいをすることになりました。そうなったとき、取締役会のメンバーは彼の側につきました。そうして、私は30歳でアウトです。さらしものにされて、アウト。私が、大人になってからのすべてを賭けたものを失った。ぼろぼろでした。

 数ヶ月は何をしていいかわかりませんでした。私は、先輩の事業家たちをがっかりさせたと思いました。先輩たちが、私に手渡してくれようとしたバトンを落としてしまった。私は、デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会って無様ななりゆきを詫びようともしました。私は、知る人ぞ知る落伍者でした。シリコンバレーから逃げ出したいとさえおもいました。

 けれど、徐々に光が差してきたのです。私は、まだ自分がなしたことに愛着を持っていました。アップルで我が身に起こったことで、その気持ちが揺るぐことは少しもありませんでした。私は、追い出された。けれど、私はまだ自分のなしたことを愛していました。だから、もう一度やり直そうと決心しました。

 その時はわかりませんでしたが、後に、アップルで我が身に起こったことは、最高の出来事だと思うようになりました。成功者としての重荷が、駆け出しの気楽さに変わり、何ごとにもとらわれなくなった。そうしたことが、私を人生において最も創造的な時期に解き放つことになったのです。


 それから5年の間に、私はNeXTという名の会社を興しました。もう一つはPixerという会社です。
 それから、後に私の妻となるすばらしい女性と恋に落ちました。
 
Pixerは、世界ではじめてコンピュータによるアニメをフィーチャーしたトイ・ストーリーという映画をつくり、今や世界でも最も成功したアニメーション製作会社になっています。
 それから、びっくりですが、アップルはNeXTを買収して、私はアップルに復帰しました。我々が、NeXTで開発した技術は、現在のマックの技術革新の中核をなしています。
 そして、ローレインと私は、すばらしい家庭を持っています。

 私は確信しています。私がアップルから追い出されるという事態がなければ、こうはいきませんでした。とてつもなく苦い薬でしたが、患者には必要だったのです。時に、人生はレンガの塊で頭を殴りつけるようなことをします。でも、信念を失ってはいけません。

 私を突き動かしていたものは、自分がやってきたことが好きでたまらない、という思いだけでした。自分が好きでたまらないことを探すのです。恋も仕事も同じです。仕事が生活に占める割合はどんどん増えていきます。その時、真に満ち足りているためには、自分が立派な仕事だと信じられることをするしかありません。そして、立派な仕事をするためには、好きでたまらないことをするほかありません。 まだそれを見つけていないなら、探し続けよう。あきらめないで。心に関わるすべてことはそうですが、見つけたときには、これだ、とわかります。そして、すばらしい関係が常にそうであるように、時間を経るごとにすばらしくなっていきます。だから、それを見つけるまで探し続けてください。あきらめないで。

 3つめの話は 死 についてです。
 17歳の時、こんな言葉が引用されているのを読みました。《毎日を、人生最後の日と思って生きよう。そうすれば、いつか必ず正しい自分になれる。》
 この言葉はとても印象に残り、それから33年間、私は毎朝、鏡に向かって自問します。

 《もし、今日が人生最後の日だったら、今日しようとしていることをやりたいか?》

 「ちがう」という日が続けば、何かを変えなければいけない、とわかるのです。

 自分がまもなく死ぬ、そう思うことは、人生における重要な選択のための道具でした。他人の期待とか、プライドとか、とまどったり失敗したりすることに対するおそれとか、死ぬことに向かえば何でもありません。本当に重要なことだけが残されます。自分が、今も死に向かっているんだ、と心に刻んでおくことは、何かを失うのではないか、という囚われを避ける最善の方法です。みな生来無一物です。心の指し示すままに生きてはいけなない理由などありません。

 1年ほど前に、私は、癌だと診断されました。朝の7時に画像診断を受けました。その時、膵臓にはっきりと腫瘍が見えたのです。私は、膵臓が何かもよくわかっていませんでした。医師は、不治の癌であることはまちがいなく、余命はせいぜい3ヶ月から6ヶ月であろう、といいました。そして、家へ帰って身辺を整理しなさい、といいました。それは、医者の言い方では、死ぬための準備をせよ、っていう暗号です。子どもたちに10年くらいかけて言おうとしていたことを、数ヶ月でいっておけ、ということです。家族が簡単にあとの処理をできるように、なんでもちゃんとしておけ、いろんな人に、さよならをいっておけ、ということ。

 私は、一日、その診断を思いながら過ごしました。その日の夕方遅くに、生体組織検査を受けました。内視鏡を喉から、胃、腸へと挿入して、膵臓から腫瘍の細胞を少し取ったんです。私は、麻酔をかけられていたので、覚えていないのですが、そこにいた妻によれば、医師達は、細胞を顕微鏡で見ると泣き出したそうです。私の膵臓癌は、手術で治癒可能な極めてまれな癌だったのです。私は、手術を受けて、今は元気です。

 これは私が最も死に近づいた経験であり、できるならば、あと数十年は、もう近づきたくない経験です。そして、この経験をしたからこそ、死が単に知識だった時よりも、確信を持って言えることがあります。

 誰も死にたくはない。死して天国に行けると信じている人たちですら、死にたくはない。
 それでも、死は誰にも避けられない最終到着地です。だれ一人としてそれから逃れた者はいない。
 そして、そうあるべきなのです。死は、生命が生み出したひとつの、そして最高の創造物だからです。死は、人生を変える。古きものを一掃し、新しきもののための道を通す。
 
 いま、新しきものは皆さんです。しかし、そう遠くない将来、みな徐々に古びてゆく、やがて消え去るのです。芝居がかっていてごめんなさい、でも、これが真実です。

 時間は有限です。他人のために時間を浪費してはいけません。定説に囚われてはだめです。
 それは、他の誰かの考えの残り滓にしかすぎません。他人の考えのノイズに、あなた自身の内なる声をかき消されないように。一番重要なことは、あなたの魂と内なる声に従う勇気を持つことです。それらは、どうしてか、あなたが本当になりたいものを知っているのです。それ以外のことは、すべて二の次にすぎません。

 私が若いとき「全地球カタログ」という素晴らしい本がありました。
 それは、私たちの世代のバイブルでした。その本は、ここからそう遠くないメロン・パークに住むスチュワート・ブランドという人が生み出し詩的な生命を吹き込みました。
 1960年代の終わりで、パーソナル・コンピュータも、DTPもなく、すべてはタイプとハサミとポラロイドカメラで作られていました。いってみれば、ペーパーバックでできたグーグルみたいなものです。理想を掲げ、小気味のよい小道具と、すばらしい知見に溢れていました。

 スチュワートと彼の仲間は、全地球カタログをたくさん発刊して、なすべきことをなしおえて、最終号を出すことになりました。1970年代の半ば、私が皆さんくらいの歳のころです。背表紙は、朝早くの田舎道の写真でした。冒険が好きならヒッチハイクで行ってみたくなるような道です。

 その下に、言葉がありました。


 《欲張りでいよう バカのままで》

 それが彼らのさよならのメッセージでした。

 《求めつづける愚か者であれ》

 
いつもそうありたいと思ってきました。
 そして、いま卒業を迎えた皆さんにそうあってほしいと思ってます。

 Stay Hungry. Stay Foolish.

 どうもありがとう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

安愚楽関係のエントリー 引っ越しします。

 私の安愚楽牧場に関するコメントやら、反論やらは、以下のブログに引っ越しました。

 ご関心のある方は、どうぞ、こちらをご覧ください。これに伴い、これまでの「撫明亭日乗」のエントリーは削除します。

 弁護士 近藤早利の言いたいこと http://skondo-life.cocolog-nifty.com/law/
 
 新しいブログには、私が初めて「債権者説明会レポート」をしてから、今日まで、直接、やりとりがなされたものは、転記しました。別に、安愚楽問題に限らず、職業人として、いっておきたいことは、書いて行こうと考えています。

 このブログ『撫明亭日乗』は、今は、天国にいる父と、郷里にいる母のために、そして、家族のために、まだ見ぬ孫や曾孫たちのために、そして、私の老後の楽しみのために書いているもので、誰かと論争しようとかいうことは、まったく意図していません。

 私は、弁護士であるより先に、生活者で、遊民で、ただ、日々、わずかの酒と酒肴があり、家族や事務所の皆々と、楽しく仕事をし、妻子と愛犬を愛でて暮らしていければ、それでいいのです。

 そういう日々の記録に、生々しい論争を持ち込むのは、はなはだ不本意のため、法律関係の、肩肘張った話は、別ブログで述べるべきだと判断しました。

 意のあるところをお酌み取り頂ければ、ありがたく。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 23, 2011

スカートの脱がし方

1314110392072.jpg
いかチリソース

1314110394016.jpg
いか焼売

 朝 平木クリニックへ 順調のため薬へらしましょうとのこと
 昼 日本橋駅を下りて、二色もりそばを食べる。ふつうのおつゆとごまだれ。
   そこに、クリニックでいただいた薬を忘れた(>_<)
 13時 パートナー会議
 その後、がしがしと仕事
 18時40分 忘れ物に気づいて、お昼の蕎麦屋へ行ったら、ちゃんと薬はあった
      お騒がせいたしました。
 19時20分 先月から月に一回、銀座クッキングへ行って、お魚の料理を習っています。
 今日は、上の2品。

 先生が、なかなか楽しくて

「烏賊の皮をむくときは、このように、男性の生徒さんもいるんでいいにくいけど、スカートを脱がすみたいに、すこしづつ上から下ろしていきます。ほら!白い肌がでてきたでしょ?」とかおっしゃって、実演してくださる。

 その後、ふたりづつ組んで、実習。
 プロに正しいやり方を教わるのは、どんな分野のことでも、本当に楽しい。
 いや、スカートの脱がし方のことではなく(笑)。

 つくったら食べる。おいしい!
 おなじ調理台の男性が、破顔してたべておられる。
 いかチリは辛いし、ビール飲みたいよね〜。

 夜、帰宅すると島田紳助が引退記者会見中。
 芸能とやくざとは、原理的に切っても切れない関係があるはずなんだが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Ten Years After

1314070512536.jpg

 安愚楽牧場の債権者説明会のレポート以後、このブログのアクセス数が30倍くらいになって、3日間の累計で8000を超えようとしている。おそるべし、ツイッターによる誘導力。
 
 ふだん、私のヒマネタをお読みいただいている方々には、トーンのちがいにさぞや驚かれたことでありましょう。
 
 特に、昨日の夜の、被害者弁護団長の紀藤さんへの反論では、弁護士モードむきだしにしてしまいました。おはずかしい。くわばら。

 おかげさまで、被害者本人の方々からは、感情的な反論はまったくなく

 「ちがう視点からの意見もいただいて、冷静に考えることができるようになりました。ありがとうございました。」というツイートがほとんどでした。

 写真は、メイが家に来たばかりのときの写真。娘もほぼ10年前。
 赤ちゃんのメイが、かわいくて、かわいくて、妖精のようだとおもって、いろんな人に、実物や写真をみせてまわった。
 しかし、いま見るとまるで貧乏神のようだ。
 どこかで、外人に「これ犬? ねずみじゃないの?」といわれたのも、むべなるかな。
 
 それから10年目。
 娘もメイもすっかり大きくなった。


| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 15, 2011

正しいお盆の過ごし方

13日〜15日まで、家族で、実家へ帰ってきました。
施設に入っている母を、介護タクシーで迎えにいって、
家に着いたら、お墓参りをして、あの世の父を連れ帰り

14日の夜は、兄弟3人の家族が全員で、お正月以来の外泊を許された母と夕食

1313413202226.jpg

19時30分になると恒例の花火大会が始まります。
フィナーレの1分間はこんな感じ。

花火が終わってシャワーを浴びて、中学時代の同級生の集まりにでかけました。
もう、孫すらいる奴もいるけど、気分は中学生です。
1313413203476.jpg

15日、朝、母は兄からリハビリをかねて唄のレッスンを受けています。
1313413204245.jpg

ま、疲れたけど、正しいお盆の過ごし方はこういうものですね。
自分の原点確認です。
1313413309941.jpg

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 12, 2011

世迷い言(日吉ミミさん追悼)

 今日、2011年(平成23年)8月12日、朝刊に、日吉ミミさんがお亡くなりになったとの報があった。
 10日午前5時半、膵臓がんにより、64歳だったとのこと。

 僕が大学に入って、最初の夏、岐阜の実家に帰省していると、フォークソング・クラブの先輩から、テレビ出演の要請があるから、早めに帰ってこいとの電話があった。『男と女のお話』などで知られた、日吉ミミさんが、TBSの人気ドラマ『ムー一族』の挿入歌を唄うことになり、あまりプロフェッショナルでないバンドを求めているとのことであった。ドラマの中で、郷ひろみさん演ずる「拓郎」が一橋大学を目指していたことや、後に『東京ラブストーリー』などで知られることになった、若きディレクター遠藤環さんが一橋大学出身だったことなどの縁で、私たちのクラブに声がかかったようだった。プロデューサーは、あの久世光彦さんだった。

  僕たちには、カセットテープが送られてきて、オーディションをやるから、よく聴いて、自分たちなりにアレンジして、TBSに来い、とのことであった。

 フォークソング・クラブには、いくつかのバンドがあったが、アコースティック系の「Witty Party」と私が所属していた「横恋慕」からの選抜メンバーが、ギター3台、マンドリン、ボンゴというミニマムなバンドをつくってオーディションに臨んだ。

 部屋には、もっと大勢がいらしたのだと思うが、僕の記憶にあるのは、久世さんとミミさんだけだ。

 挨拶をすると、すぐに演奏をするように促されて、ミミさんが唄を合わせられた。僕たちは、演奏し、コーラスを合わせた。あまり緊張せず、平常心で演奏が終わったと思う。

 久世さんが「いいじゃないか。」といってくださり、ミミさんが「揺れてる感じがいいね。」とおっしゃった。

 そして、僕たちはムー一族で『世迷い言』が唄われる第1回、そのほか数回、劇中で伴奏を担当した。さらに、ほぼ3ヶ月間、ミミさんの新曲プロモーションの伴奏バンドとして、あちこちへ出させて頂いた。ある時は、ゴールデンタイムの歌番組で、楽屋には研ナオコさんのバックバンドだったアルフィーがいて、そこへ森進一さんや郷ひろみさんがやってきてきさくに話しかけてくれた。そこへ、山口百恵さんがマネージャーに付き添われて現れ、別室でステージ衣装に着替えて、神々しいほどのオーラを発しつつ撮影に臨まれた。そんな華やかな場だけでなく、ある時は、亀有の商店街のレコード屋さんの前で、小さな台の上で演奏したりもした。

 ミミさんから「揺れている感じがいいね」と言ってくださったことは、僕が音楽を続けていく上で、大きな励みになった。
 当時の貴重な映像を恥ずかしいけどアップします。

 ミミさんには、ムー一族が終わってからは、お会いする機会が一度もなかったことが残念だ。
 心から冥福をお祈りいたします。

 

| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 08, 2011

愛人犬のこと

1312798674156.jpg

 敬愛する団鬼六先生の遺作

 いきなり、笑えたのが、冒頭に手書きの家系図みたいのが書いてあって


 前妻(離別) 現在の妻 愛人さくら 愛人犬アリス


 とならべてあったことです。

 さくらちゃんは23歳くらいのキャバクラ嬢で、鬼六家にも自由にでいりしており、老いて病身の鬼六さんの代わりに、アリスの散歩係をしていたそうです。

 さくらは、ある日、突発的に自殺してしまい、でも、アリスはさくらのアパートへ鬼六さんを引っ張っていくので、慟哭するという場面が泣けます。

 そして、本妻、愛人、愛人犬と、鬼六さん(のとりまき)が一緒に温泉へ行って、騒いでいる写真なども載っていて、また、本妻と前妻の娘の手記も載っており、なんともいえないはちゃめちゃな、うらやましいような、でも哀愁のある本に仕上がっています。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

August 07, 2011

宮下ママと瑚奈ちゃん来所

1312710518851.jpg

3日(水)
 午前中はホテルの部屋からメールでいろいろして
 念には念を入れてお昼過ぎに名古屋簡裁へ
 13時30分 即決和解期日 研鑽裁判官がおおぜい来ていてN社のKさんが「そんな大事件なんですか?!」と驚いておられる。そういうわけではありませぬ。大きな3つの山をひとつ越えた。
 今日はプチ断食しようと決めて、水だけを飲みつつ東京に戻る。
 事務所に寄って、さくさくと仕事して、それから帰宅。
 普通に夕食。

4日(木)
 お昼に育児休暇中の宮下さんが、娘の瑚奈ちゃんと来所
 みんなで代わるがわるさわったり、だっこしたりする。
 僕はメイにするみたいに、眉間の間をぐりぐりしてあげる。
 菅野さんが「宮下さんがおかあさんになっている。。。」といって涙ぐんでいる。
 宮下さんも、職場が懐かしいといって泣いている。
 そういってもらえる職場でよかった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 02, 2011

1993年 ジョージタウン 夏 

1312263843168.jpg

2日 仮に中部日本大震災があっても、なさねばならぬ和解期日のため前日名古屋入り。
ついでに、兄の助けを借りて、山岡まで足を延ばし母を見舞う。
足もずいぶんしっかりしてきた。痩せたこともよかったのだろう。あとは、声がもう少し大きくなるといいね。

夕刻、姪とその子どもたちと短い時間だけ談笑し、兄と街へ出て、鮎の一夜干などで軽く飲り、それから名古屋へ。
ゆっくりやすむ。

写真は18年前の准介と早紀。
ジョージタウン大学の寮で、家族で一夏を過ごした。
夕刻から飛び交う蛍が懐かしい。
この頃は、World Wide Webという概念が提唱されてまもないころ。
インターネットの最初の標準言語であるHTML1.0すら普及していなかった。
事務所からの連絡は、大学事務局にファクスしてもらい、日に一度、とりにいくのであった。

この18年はすごい。
この時代に生きられたことを、心から感謝している。
僕はね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« July 2011 | Main | September 2011 »