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January 29, 2012

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January 26, 2012

夜明けのスキャット

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 日本橋三丁目の交差点の夜明けです。

24日(火) 米子出張
 昨夜の雪で、一般道はダメな車でいっぱい。あやうく飛行機に乗れないかと思った。
 米子に着くと、大雪で、強風。雪が真横に飛んでいる。
 出張した甲斐のある成果。
 帰宅するころ、好天になって無事帰京。
 夜、医師のU先生、もと、新聞社のIさんと会食。

25日(水) 
 朝、歯医者。麻酔がきびしい。
 所内打合せ3件。
 細かい仕事をあれこれ。

26日(木)
 早朝7時〜ミーティング。
 事務所についた時は、まだ6時半。夜明けの街がうつくしい。
 これについては、いずれ詳しく書きますが、すごいミーティングです。
 その後、10時、11時、13時、14時、15時、16時半とミーティング。ひぇ。

 夜、昨日録画しておいてNHKのSONGSの由紀さおりwithピンク・マルティーニを観る。
 いいですね。でも、『ブルー・ライト・ヨコハマ』はやっぱり、いしだあゆみがいい。

 
 
 

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January 23, 2012

雪 渋谷

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1月23日(月)
 朝から氷雨
 一日中がしがし仕事する。
 夕刻、ある種のEmergency Callがあって、某事務所へかけつける。
 息子のTV収録ライブが21時30分からあるので、渋谷へ。
 妻と娘と合流したのはもう20時過ぎ。

 新曲2曲を含む4曲。
 はじめての日本語の曲もあった。
 幼なじみのラムジがゲスト出演してラップをしてくれた。
 今日の演奏はかなりタイトでよかった。

 帰る頃には牡丹雪が。


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早稲田大学川口芸術学校 卒業・終了制作展

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1月29日(日)
 息子の准介が、いろいろと関与した映像が映されるということで、妻とでかけた。
 
 映画『キムチのスープ』中智範
 Motion Graphics『Never Felt Further』奥墨亮介
 ドキュメンタリー『生野のアリラン』小林努・林在雄
 映画『Come Wander With Me』福崎星良

 『Never Felt Further』は息子の楽曲のためのMusic Video.
 互いの時間がすれちがってしまい会うことのできない男女の微妙な距離を、歌詞の世界観を生かしたドラマと伸びるケーブルのアニメーションで表現した作品(パンフレットより)。
 当然ながら?最初から最後まで息子やバンドがフィーチャーされている。

 映画『Come Wander With Me』は、膨大な数の映像をコラージュして、青春の混沌を表現した56分の意欲作。こちらにも、ドラマなのかドキュメンタリーなのか、夢なのかうつつなのか、あるいは両方を行きつ戻りつする映像に、息子が大きくフィーチャーされている。56分間の長尺を、まったく飽きずに観ることができた。

 息子が関与していない『生野のアリラン』は在日朝鮮人・韓国人が多く暮らす大阪の生野に取材したドキュメンタリー。夜間中学に通う、多くはおばあちゃんへのインタビューや先生方の話がすばらしい。

 在日の人々を被害者とか非抑圧者と扱わず、それらを乗り越えて、老齢になってもなお学ぼうとし、学ぶことが楽しくてたまらない人々がまぶしい。力をもらった。

 教育が何かの目的のためのものであるかのような議論が当然のように語られる。学ぶということが、お金を稼ぐためや支配層に身を置くための技術を得る手段であるかのような議論である。しかし、このドキュメンタリーを観ると、そのような教育観、政策がいかに貧しいものであるかがよくわかる。

 学ぶのは何のためでもない。学ぶことが楽しいから、何に役立つかはわからないが、学ぶことそれ自体が充実感をもたらすから人は学ぶのだ。

 2時間にわたって4つの作品を鑑賞し、劇場で観るのと変わらない品質で大画面に自分の子が映っているのを何度も観て、不思議な気持ちで会場を後にした。かなりの充実感と共に。

 これだけの作品群を、学生の卒業制作展で観られるとは。
 妻は「これなら日本は大丈夫だという気持ちになるね」といった。

 Steve Jobsにこの作品群を観てほしいと思った。
 あなたが夢見て、そして生み出したハードとソフトを駆使して、日本で、若者がこんなにすばらしい作品を作り出しました。それを創り出したのは、そして、そこに描かれているのは、日本の若者だけではありません。あなたが語ったように、若者にとっては世界はひとつです。あらゆる国の若者がまったく自然に交わって解け合って力を合わせて作品を生み出しました。どんな権威にも膝を屈することなく。

 きっとSteveは、新製品発表の際に見せたのと同じ得意げな笑顔を見せてくれただろう。
 そして、きっと少しだけ泣いただろうと思う。
 
 

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January 22, 2012

大庭のおばあちゃんのこと

 あれやこれやに縛られた生活が息苦しくなると、いつも、大庭のおばあちゃんのことを思い出す。

 僕の育った家は、岐阜県の東南のはずれの標高三三〇メートルの小さな町にあって、進学した名古屋の私立高校へ通学できる距離にはなかった。それで、僕は、高校の隣にある自動車修理工場に下宿していて、夏休みには父母のいる家に帰った。帰ると、母から「大庭へ挨拶に行っとんさい」といわれる。大庭というのは母の実家だ。農家で庭が大きいから「大庭」。大庭のおばあちゃんはそこにいる。

 夏の陽射しの中を、ぶらぶらと二十分ほど歩いて大庭につく。短い坂の登り口の横には道路に面して農具小屋と鯉を飼っている池がある。坂を上がって道路より二メートルほど上に、南に向いた長い縁側のある母屋があって、その右に離れが、左にはニワトリ小屋と土蔵がある。

 母屋の裏、北側は小さな山の斜面が迫っている。そこには、かつて防空壕として使われた横穴がある。従姉妹たちと、隠れん坊をして遊んだとき、必ず隠れた場所。入り口に近すぎては、かんたんに見つかってしまう。かといって、奥へ進んで行くと、陽も差さず、灯りもなくて、何より天井が崩れ落ちてきそうでこわい。そこは天然冷蔵庫とも呼ばれていて、自家製の味噌やたまりを醸造する桶が置いてあった。幼いころ、僕たちは、冷んやりとした空気の中で、代わる代わる麹の匂いに包まれて息をひそめていた。

 母屋の長い縁側に腰掛けると、目の前には、さっき僕が歩いていた道路の向こう側に、青々と田が続く。さらに向こうには、お寺やお墓や神社のある小高い森が見える。大庭を訪ねたとき、いつも晴れていたはずはないのだが、僕の記憶の中にあるのは、夏の青空に雲が浮いており、稲穂が風に揺れている景色だけだ。

 おばあちゃんは、明治に生まれて、ずっとこの町で過ごしてきた。隣の村から嫁いできて、三男二女をもうけた。母が小学生だった昭和一〇年代、大庭にはニワトリだけでなく、牛も山羊もいたという。牛は開墾のため。山羊は搾乳のため。農業をしながら動物に囲まれて過ごすのは、楽しそうというのは甘い考えだ。現金収入が乏しければ、自給自足に近づく。母たちは、学校へ通うための藁草履を自分たちで編んでいたし、着物は何度でも繕い直して着ていた。標高の高い町だから、冬は本当に寒い。子どもたちは氷点下でも素足に草履で、しもやけやあかぎれだらけで、本当につらかったという。

 おじいちゃんは、そんな生活から抜け出すべく、家をおばあちゃんに任せて、養豚業でひとやま当てようと名古屋へ行ってしまった。一時的な成功は、おじいちゃんの遊ぶ金になってしまい、となり町に、僕の母によく似た女性がいて、おじいちゃんの隠し子と噂されている、という話もきいた。

 子どもたちのことを任されたおばあちゃんは、倹約を重ねて、三男二女に、できる限りの教育を授けた。でも子どもたちの生活は平穏とはいえず、長男は徴兵され、終戦後六年にわたってシベリアに抑留された。次男は復員後、花屋さんを始めたけれど長くアルコール中毒に苦しんだ。長女は宮大工の家に嫁いで、穏やかな生活を営んでいたが、次女である僕の母の人生は波瀾の連続だった。

 最初の夫の酒癖と暴力に苦しみ、離婚して男の子一人を連れて実家に戻ることになった。その後、再婚し、生まれたのが僕だ。父も最初の妻と別れてふたりの子を抱えていた。だから、僕には、母を同じくする兄がひとり、父を同じくする兄がふたりいて、父母を同じくする兄弟はいない。ややこしい。

 僕が高校生の頃には、そうした波瀾は過去のものになっていた。末っ子の叔父が家を継ぎ、町役場に勤めて順調に昇進し、兼業農家として生活は安定していた。

 訪ねていけば、おばあちゃんは、かならずいる。どこかに出かけたりなどしない。生涯で家以外のところに泊まったことは二度しかないといっていた。一度は、次男が生死に関わる病気になって遠く離れた町の病院へ連れて行ったとき、もう一度は僕が小学生の時に、母が、自動車の運転免許を取って、おばあちゃんが旅行というものを経験したことがないのはかわいそうだといって、僕と一緒に伊良子岬へ連れて行ったときだ。

 農業と家事で働き詰めだったおばあちゃんの腰はすっかり曲がっていて、つかう杖は、三十センチくらいで足りていた。ちいちゃい、ちいちゃい人だった。

 おばあちゃんは、田や畑にでることはなくなっていたけれど、行くと、たいてい風通しのよい玄関の上がり框に腰掛けて、何か手を動かしていた。野菜の皮をむいたり、繕いものをしたり。編み物には熱心だった。

 あいさつをすませると、僕のために飲み物とおやつを用意してくれる。カルピスだ。曲がった腰で、ゆっくりと台所へいって、ドアがひとつしかない冷蔵庫から製氷皿を出して、小さなグラスにふたつくらいだけ氷を入れる。そこにカルピスの濃縮液を入れて、水を足す。水はもちろん井戸水だ。カルピス・ウオーターなんて製品はなかった。おやつも自家製だ。寒天に茹で小豆や牛乳を入れて固めて冷たく冷やしたもの。食パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたもの。夏みかんの皮を砂糖づけにしたもの。おばあちゃんは食べないで、僕の分だけ用意してくれる。 

 飲み物とおやつが用意できると、いろいろ話をする。かならず聞かれるのは学校の成績のことだ。母親のちがう僕の兄たちの成績がよかったので、僕だけが成績が悪かったら、それは大庭の血統のせいだ、ということになるから、といって、いつも気にしてくれていた。生徒が一学年百人しかいない中学校の秀才だった僕は、名古屋の高校では、はじめは中の下がいいところだった。学校と名古屋という土地にはなじめなかったけど、おばあちゃんをがっかりさせたくないこともあって、地道に勉強に励んだ。休みの度に、前よりも順位が上がったよ、と報告できた。

 それから、親戚みんなの近況を話し合う。僕は、東京の大学に行っている兄たちのことを報告する。おばあちゃんは、子と孫たちの近況。それから、町の人たちのこと。誰が嫁に行った、中風で倒れた人がいる、家を建てたけど嫁がいないとか。文字どおりの四方山ばなし。ゆっくり、ゆっくりお話をする。

 本の話も時々した。おばあちゃんは、たどたどしい字しか書けなかったが、本を読むのは好きで山岡荘八の『徳川家康』がお気に入りだった。有吉佐和子の『恍惚の人』の感想を聞かせてくれたこともあった。時々「むつかしい理屈はわからんが」といいながら、政治や政治家の批評もした。

 そうやって、のんびりとした時間を過ごしたのち、僕は「じゃあそろそろ帰るで」という。おばあちゃんは「そうか、もう帰るか。ちょっと待っておれ」といって、農作業用のはさみを持って、短い杖をつきながら、ゆっくり坂道を下りていく。そして、坂の下の田の畦に植えられた枝豆を、根本から切って渡してくれる。枝豆の束が増えて、あごの高さになると「もうこれくらいでええか」と、おしまいになる。それから、僕は、青臭い枝豆を両手とあごで支えて、腕や顔がかゆくなりそうな気がしてあわてて坂を登る。おばあちゃんは、ゆっくりゆっくり戻ってきて、枝豆を新聞紙でくるんで持ちやすくしてくれる。

 僕は「ありがとう。またくるで」といって、枝豆の包みを持って大庭を後にする。おばちゃんは、坂の上から僕を見送ってくれる。曲がった腰を、精一杯伸ばして。

 数年前、高校時代の友人の管啓次郎君から贈られた『ホノルル、ブラジル』という本で「reinhabitation」ということばを知った。《土地のいろいろな水の流れとか、その土地の植物相や動物相をじっくり見きわめた上で、自分自身がその土地に責任を持ってそこに土着化していくこと》(同書p66)。

 この部分を読んだとき、ことばの定義と、おばあちゃんの生き方は僕の中でまっすぐに結びついた。

 おばあちゃんは、土を耕し、稲や野菜を植え、動物の世話をしながら、少ない数の本を、ゆっくり、繰り返し読んで自分の生活の作法や信念をつくりあげた。借り物のことばは、何一つ言わなかった。自分が誰かに影響を与えようなんて、すこしも考えていなかった。自分が生きた痕跡をこの世に残したいと、あがいてもいなかった。ただ、家族と近隣における、その時々の自分の役割を、責任を持って静かに果たした。かっこいい。

 僕が、大学四年生の冬、おばあちゃんは亡くなった。

 おばあちゃんは、僕を含めて、すべての孫の子ども、つまりまだ見ぬ曾孫たちのために、毛糸のちゃんちゃんこ二着ずつを編んでおいてくれていた。男の子のための青と、女の子のためのピンク。たどたどしい字で「さとし 男」「さとし 女」と孫の名前と曾孫の性別を書いた箱に収めてくれていた。

 亡くなった日は、いつものように編み物をしていて「ちょっとえらい(苦しい)」といって、横になって、そのまま入院することもなく息絶えた。

 だから、おばあちゃんが、生涯で家以外のところに泊まったことは二度しかないという事実は、最後まで変わらなかった。

(2011年7月 読み書きクラブ例会にて発表)

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乾燥と雨風雪

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 空気が乾燥しきっているのは体にはつらいけど、このくらいなら楽器にはいい影響があるみたいだ。
 震えるほど美しく繊細で官能的な響きを奏でる000−28EC。
 僕の演奏家としての腕がもっと上ならば、もっといいに決まっているけれど、慣れ親しんだコードを親指で奏でるだけでも瞬時に陶酔がおとづれる。このギターとの出会いに心から感謝する。

 このブログは2005年1月23日にはじめた。もうすぐ満7年になるんだ。
 IT系の技術は使ってみないと、その意味がわからない。
 とりあえず立ち上げてみようと思ってつくってみただけだ。
 そのうちに、実家の父母がみてくれるようになって、ずっと近況報告のつもりで書いてきた。
 有益な情報を世にだそうなんて思いはさらさらない。
 単なる身辺雑記だが、老いて書けなくなるまで続けば何らかの意味が生まれてくるかもしれないという思いは、少しはある。

 7年の間にいろんなことがあった。
 事務所には何人かを迎え、何人かが巣立っていった。
 子どもたちは中学生から大学を卒業するまでになった。
 司法研修所の教官になって、約3年半にわたるタフな生活を終えた。
 父がこの世を去り、母は施設での暮らしを余儀なくされることになった。
 父はもはやこのブログを読むことはなく、母も施設でこれを読める環境にない。
 そのせいなのか、最近は更新が滞りがちだ。
 これからは、もう少し更新をこころがけよう。
 新しいiPadが出たら、母が施設でも読めるように、プレゼントしてやろうかな、ともおもう。

 12日以降今日まで、なんだか忙しかった。夕食は三度しか家で食べることができなかった。
 かといって、深夜までデスクに向かっていたのではなく、趣味や仕事にまつわるさまざまな人とお酒を酌み交わしつつ勉強をしていたのだが。この「酌み交わしつつ」がなければ、どれだけ体が楽か。わかっているのだが、「どうすれば酒を呑んでも適切な量に留め、適切な時間に帰宅できるか」を話しているだけでも議論は深夜におよび、そのような議論が不毛であることが実証されるから始末にわるい。自分の思考に枠をはめているフレームワークというか足場をはずすにはどうすればいいか、という問題についての解決は、その枠組みの中からは生まれてこないはずで、外部との交通が必要なんですね。構造主義の知見だ。なにいってんだか。

 昨日は、司法研修所ではじめてフルにクラスを受け持った現行60期20組のクラス会。
 みんな変わっていないな。いい意味で。
 楽しかった。またやりましょう。

 今日で3日連続の風雨雪。
 夕刻、早稲田大学川口映像学校の卒業制作展を観に行く予定です。
 息子が音楽を担当した映画と息子の楽曲のためのミュージックビデオが同時に上映されるらしい。

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January 11, 2012

5日から11日まで日録

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↑ 昨年の忘年パーティの集合写真

5日(木)
午前中は修習委員会の模擬裁判打合せ。
午後は帰省して、6時から百ちゃんの通夜。
用意された席にも就かずに町へ出て、酒のみの従兄、兄らと久々に酒を酌み交わす。
そんなに呑んだはずはないのに、すこし記憶がとんだ。

6日(金)
早朝から密葬と火葬。
寒い。マイナス7度。
お昼から葬儀。
夜の予定をキャンセルしてもらい、忌明けの席であちこちの親戚とお話をする。
終わって帰京。

7日(土)
レオニー海外版完成試写会。
わかりやすくなった。
これをよしと考えるかどうか。
獅童さんの英語がうまくなった(笑)

マイ・レオニーの新年会に出たのだがどうもふらつくと思って帰宅すると発熱。
しかし、風邪ではない。
明日は福島へいく予定だったが急遽キャンセルしてもらい休養することにする。

8日(日)
爆睡と読書の繰り返し。
よい本ばかり読みまくって至福。
それらについては別に紹介するなり書評を出すなりいたします。

9日(月)
昼過ぎまでだらだら。
午後はほぼ回復。
読書をつづける。

10日(火)
暖かい日。
ミーティングで熱を込めて話していると汗をかいてしまう。
冷えるといけないので、しばしばアンダーシャツを取り替える。
まるで投手のよう。

11日(水)
朝、歯医者さんへ定期点検に。
以前から不安定だといわれた詰め物をとると虫歯が進行していたとのことで
2時間半にわたり麻酔を三本打ってがりがり。うわ。
午後いっぱい顔の左半分が麻痺していた感じ。
夕刻から「読み書きクラブ」のための書評を書く。
帰宅後、おなじく持参する料理(というほどのものでもないが)準備をする。

今日でようやく仕事に追いついた感あり。

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January 04, 2012

今日こそ青空を

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 昨日から、胃が重いので、今日は半断食。
 事務所へ出て、昨日の続き。
 今日も、すばらしい青空。
 今日こそ、青空の写真をアップしようと思ったが、うっかり忘れて夕焼けになった。

 事務所へ出てから、メールやあれこれ、いくつかの雑用をすませ、昨日のつづき。
 途中で、ひらめくことがあって、午後3時過ぎ、作業を終わらせる。
 すこし時間ができたので、コレド室町へ行って、いくつかのお店を流す。

 それから、帰宅してメイの散歩。
 明日の百ちゃんの通夜に出席するための段取り。
 今年も、もう百分の一をすぎてしまった(笑)

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January 03, 2012

新年が明けて〜百ちゃん逝く

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 年末は30日に明智へ帰省した。寒いことさむいこと。
 31日に母を「こころの丘」へ迎えに行き、その夜は、お寿司と寄せ鍋で次兄一家とお年取り。
 1日の朝は、次兄手作りのプロはだしの「おせち」とお雑煮。
 お昼前に家を出て母を送り、そのまま帰京。

 介護といえるほどのことはしていないけれど、子を育てて半人前、親の介護をして一人前、ということばの意味を垣間見る。けど、こんなことがなければ、母親をハグすることなんてなかっただろう。それはそれでよかったか。

 帰京後、家にも寄らず、妻の実家へ行って、病臥する義父の横で、妹の弟妹たちを交えて、また宴会。
 一升も呑んじまった。ひとりで、じゃないけどね。
 義父は、テレビ見ているふりをして、いろいろ聞いていたらしい。

 2日は、また、朝からおせちの残りでビール飲んでしまったが、さまして、午後遅くに、妻が加入してるスポーツクラブへ。プールでたくさん歩いて、500メートル泳ぐ。妻は実家へ義父の世話をしにゆき、私は「さっぱり系」でいろいろ料理して、妻を待ち、妻帰宅後食事。

 食事中、母の姉の「百ちゃん」こと、遠山百枝さんの訃報に接する。一昨年、母が倒れたときは、百ちゃんの方が先に亡くなるなんて、思いもしなかった。母は、いろいろな習い事が好きで、おさらい会がある度に、百ちゃんの世話になっていた。母は、百ちゃんのことを「付き人」だなどといっても、百ちゃんはいつも笑ってお世話してくれていた。母は「わたしは、百ちゃんと喧嘩したことがない。娘のころから一度も。」と強調していたが、百ちゃんは「私が相手にせんもんで」と微笑んでいた。父母が若い頃、さまざまな苦難に接したときも、いつも百ちゃん夫妻が助けてくれた。亡き父は、百ちゃんの旦那さんの一男さんを「兄貴、兄貴」と慕っていた。父母は、百ちゃんの娘たち、つまり、僕の従姉たちをとても可愛がり、僕も従姉たちからとても可愛がってもらった。そんな風に、我が家と遠山家は、特別に親密な関係にあった。百ちゃん、長い間、本当にありがとうございました。安らかにおやすみください。

 3日の今日は、事務所へいって仕事。詳細は述べられぬが、一銭にもならぬ、しかし、一切の手抜きは許されないこと。半分まで終える。また明日いって、残りを仕上げよう。事務所は、中央通りに面しているので、箱根駅伝の帰路のコースに面していて、すごい声援と鳴り物の音がきこえる。そういえば、去年もこの歓声とブラスバンドの演奏を聴きながら、はじめての仕事をしたのだった。

 こうして、年賀のことばも記さず、身辺のできごとを記しているのは「おめでとう」という言葉を記す気にならないからでもある。

 暗いと文句をいう前に、じぶんの回りを照らしましょう。
 今年も、自分の半径30メートル、できれば半径100メートルをよい方向へ変えるために、日々の生活を送ろうと思います。
 

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