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June 17, 2012

父の日

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 グアムではたらく娘から贈られてきました。

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June 16, 2012

原発再稼働・消費税増税と片岡義男

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 大飯原発の再稼働が今日決定されるのだそうだ。
 消費税増税については、実務者協議で民主党、自民党、公明党が合意して「消費税増税法案 成立へ」(今日の毎日新聞朝刊1面トップ見出し)なんだそうだ。
 
 どこまでコケにしてくれるのかと憂鬱をとおりすぎて吐き気すらする。

 どちらも民主党が政権を取った時には、争点になっていなかった。
 消費税増税については「やらない」といって民主党は政権をとった。真逆である。
 その時、東日本大震災は起こっていなかった。
 どうしてそういう問題について「政治生命を賭して」猛進するのか、まったく理解ができない。
 
 私は、原発再稼働には反対だ。
 この夏の猛暑が予想されピーク時に15%の電力不足が懸念されると?
 国民生活に重大な懸念が。
 はぁ?

 野田総理をはじめ政府のみなさまもマスコミの皆様も大騒ぎしているけど
 僕がはじめてこのことを聞いた時の感想は

「え、原発なしでもった15%しか不足しないの。だったら、みんなでがんばればずーっと原発なしでやっていけるじゃん。これから人口も減っていくんだし。いまのところ、節電の努力なんて、ほとんどしてないし」というものだった。
 そうじゃないですか?
 体重100キロあって、このままでは脳卒中や心臓発作などが懸念されるので、85キロまで減らしなさい、って、いわれたら、簡単だろう。50キロまで減らせっていわれたらともかく、70キロくらいまでは、命かければ簡単にがんばれるぞ。

 消費税増税については、そんなことでは財政再建はできない、ということは、野口悠紀雄先生をはじめ多くの方が、数値に基づく議論で立証してくださっている。消費税増税に頼るんでは、最終的には30%までしないならなくなると。

 例えばこちら
 http://diamond.jp/articles/-/15746

 これはこれで、語りたいことは山ほどあるが、もうそのことはいい。

 問題は、このことに関し、政治家たちが、プロパガンダでも、恫喝でも、感情的反発でもない、冷静で論理的な議論を尽くさないままに、国の命運を左右するようなことが決められていこうとしていることだ。そして、そのことにマスコミが冷静で理性的な立場をとらず、「国民生活の危機」みたいな情緒的な報道ばかりして、ちっとも整理された情報の提供がなされていないことだ。議員も記者も、基礎的な文献も読まずに、官僚がまとめたペーパーだけで勉強しているんじゃないですか。

 今ままでも、これに近い思いをしたことはないではない。

 しかし、僕は、東日本大震災を経験して、日本人は変わる、と強く期待していた。
 いくらレベルの低い政治家でも、傲慢な官僚でも、あれだけの災厄と不幸を目の当たりにしたら、現代の社会のあり方について、根源的な見なおしをするために、勉強をし、理性ある対話を始めると思っていた。企業も国民も、少しづつ、自分たちの生活を、企業活動のあり方をかえるべく行動をすると思っていた。あまり大げさなことじゃない。電力節減についていえば、テレビ放送の時間を短くするとか、24時間営業を自粛するとか、そんなことから始めればいいと思っていた。消費税増税については、デフレ克服のために何をすればよいか、という議論が尽くされるものと思っていた。

 しかし、そんなことは起きなかった。
 中学生の学級会みたいなレベルの国会と大変だ大変だと騒ぐばかりの報道。
 大量電力消費を自ら抑制しようともしない大企業。

 どうして、こんなことになってしまっているのか。

 その根本的な理由は片岡義男さんが1999年に出された「日本語で生きるとは」に書くつくされている。
 この本は、驚くべき名著で、最近再読(三読かな)して改めて驚愕した。

 どの頁を開いても洞察に満ち満ちているのだが、「対話をしない人」という章から抜粋してみよう。これは、自分を指すだけでも「わたし」「ぼく」「あたし」「おれ」「手前ども」(以下無限につづく)と数限りない呼称がある日本語における「対話」と、「アイ」と「ユー」しかない英語における「対話」を対比しての論述だ。

《自分専用の固い枠の内側に守られ、その限りにおいて安心して存在していることの出来る自分という人のありかたは、日本人のありかたの基本といっていい。(中略)
 このようなありかたの中にある人にとって、およそもっとも不得意なのは、なにごとかをめぐって他者となされるべき対話というものだ。(中略)
 対話とは、共通の関心事という問題をめぐって、他者とともに可能な限り言葉をつくしあい、その作業をとおして、問題とされていることについて考え抜き、もっとも健全な方向を見つけていく試みだ。(中略)
 この一対一の関係は、絶対に対等でなければならない。(中略)
 相手の背後にあるもの、たとえば相手の立場や事情にひきずられてはいけない。自分もまた、自分の背後にあるものを、相手に対する影響力としてはいけない。こういう立場だからとか、こういう経歴の人だからというような、現実における個々の事情を、対話のなかに持ち込んではいけない。(中略)
 自分も相手も、それまでの人生で獲得してき蓄積してきた判断力や知識などのありったけを、対話のための言葉の支えにする。対話のために使う自分の言葉には、自分のすべてが賭けてある。相手も同じようにそうする。(中略)
 対話は一騎打ちでもないし、わかり合いごっこでもない。両者の間の共通性を可能なかぎり見つけ出していく作業を、言葉をつくして考え抜くことによって、徹底的におこない続ける。このことをとおして、両者のあいだに存在する差や違いが、とことん追い込まれていく。(中略)と同時に、両者にとってたがいに了解し合う事の出来る領域が、少しづつ広くなっていく。》

 ここに書かれているような「対話」がなされたうえで、国民の多数が、原発再稼働を支持し、また、消費税増税を是としたなら、そして、その政策を取った結果について、推進した人と支持した人が、きちんと責任を取る覚悟があり、実際に責任を引き受けるならば、私は、甘んじて多数派の意見に従おう。それが、私たちの国がとっている統治の仕組みなのだから。

 しかし、いま行われていることはそうではない。
 何の理念も目標も設定せず、これまであった社会のありかたをなし崩しに維持していこうという、恐ろしく怠惰なありかたでしかない。

 この本を読むと、現代の世界において日本が、日本企業も含めて存在感を失ってしまう必然的な理由の根源が「日本語の使い方」のなかにあることがわかる。

 明治のころ、日本人は、近代文明を取り入れ世界に伍していける日本にするために、日本語を大改造した。というより、新たに造り上げた。そのことは、水村美苗さんの「日本語が滅びるとき」の前半にくわしい。福沢諭吉も夏目漱石も、その中における重要なプレイヤーだった。

 いま、日本は、もう一度、日本語の使い方を作りなおさなければならない時期に来ているのだと思う。
 「日本語」が悪いのではない。その使い方がわるいのだ。英語を学ぶ意味は、実は、外人とペラペラお話ができることにあるのではなく、上記のような「対話」ができるような言語とその使い方を習得することにあると、僕はおもう。
 
 日本語はそれだけの機能を持っていて、日本人はそれができるだけの資質を持っている。
 そして、日本語運用の革命の準備もすでに整っていることは、Webの世界における良質な議論をみればわかる。

 原発再稼働も消費税増税も、このまますんなりとは進まない。
 あなた達が「愚民」と思っている人たちは、実はもっと有能で健全だ。

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June 03, 2012

義父を送る

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 5月12日、妻の父、池谷雅一が逝った。

 GWの5日には、義母、妻の妹、准介、ラムジと一緒に、みさきの家へ来てくれたばかりだった。

 義父は、だいぶ前に犬の散歩中に大腿骨を骨折して以来、徐々に体力が落ちていて、自力歩行もままならぬような中、その日は、息子の運転する車に乗って来てくれたのだった。

 前半は気候が乱れたGWだったが、後半は素晴らしい好天続きで、きつすぎない陽光と吹き抜ける風が最高に気持のよい日だった。

 お昼は近くのインド・アジア料理店のAsliに招いた。店の方がテラスの椅子席を用意して下さった。そこまで歩くのも四脚の杖を使い、みんなに補助してもらってやっとで、何度も「おれは車の中で休んでいるよ」というのを、なだめ、励まし席についてもらった。すっかり食の細くなっている義父だったが「うまい。カレーは大好きなんだ。」「外で食べるのは気持ちいいな」といいながら、インド人シェフの手になる、カレー・バイキングを食してくれた。

 夜のメニューは、僕の作った若竹煮、サラダ、僕と妻のいきつけの居酒屋「井のなか」でいただいた牛肉をローストしたもの、黒鯛のお刺身、義妹の実家からいただいた鯛の昆布じめなどだった。

 大皿に盛ったのとは別に、義父専用に小さく切ってあげて食卓に出した。

「うまいよ、これ。」と何度も繰り返して、自宅にいる時よりも、沢山たべてくれた。
 禁止されているワインも一杯だけ、たいせつに飲んで、何度も「うまい」と繰り返していた。

 普段は、割りと早めに食事を切り上げて、ソファに横になってテレビを見る父だが、その日は、珍しくテレビをつけることもなく、息子に

 「准介、なにか自分の曲を演奏してみろ。」

 といって、息子がギター、ラムジがピアノを弾いて、二曲ほど演奏するのを聴いてくれた。

 じっと目をつむって、耳を傾けて、曲が終わるごとに拍手をし

  Marvelous ! Splendid !  と声をあげ

 「素敵だよ。なかなかいいじゃないか!」と褒めてくれた。

 「なにか、きっかけがあれば、やっていけるよ。頑張れよ。」と息子に声をかけてくれていた。

 義父は、スイング・ジャズをはじめ、音楽好きで、良いものを聴きわける耳は持っていたと思う。
 下町気質で、裏表のない人だから、その感想に嘘はなかったと思う。

 そんな風に、家族に囲まれて、GWの一日を過ごした義父だが、東京へ戻って4日後、10日木曜日の夜、食事中に倒れ、そのまま墨東病院に運ばれることとなった。運ばれた時から、すでに自力呼吸はできなくなっており、意識もなかった。医師には、余計な延命措置はせず、静かに、自然に任せてくださいとお願いした。

 僕と妻は、11日から週末にかけて小さな旅行にでる予定だったが、それをキャンセルして、父の入院以後、ずっと近くにいてあげることができた。

 5月12日(土)午前7時27分、義父は、帰らぬ人となった。満78歳。

 晩年は、いろいろ病んだ義父だったが、直接の原因は、くも膜下出血だった。
 このところ療養に務めていたのは、直接には肝臓の病であり、あるいは、足腰のリハビリだったから、脳の血管に動脈瘤などができている可能性については、医師も家族もノーマークだった。32年前にもくも膜下出血を患っており、九死に一生を得ていたのだったが。このところ、義父は、とても怒りっぽくなっていて、家族や訪問介護のスタッフの方々に厳しいことばを投げることも多かったのだが、ひょっとすると、影響があったもかもしれない。

 妻の実家は、三女一男で、妻以外はみな仕事がある上に、男手がすくない。
 実家のある場所は、下町の濃いご近所づきあいの関係が残っている地域で、家族だけでなく、ご近所のいろいろな方が、声をかけ、力になろうとしてくださる。義弟が、仕事をしながら、それをすべて捌くのは大変だろうと思い、僕は、妻の実家になるべく滞在するようにして、みんなと相談しながら、さまざまな交通整理をし、事務仕事や葬儀の準備を進めていった。

 通夜は、1週間後の5月18日(金)午後6時から 
 実家ちかくの鈴木セレモニーホールには、約600人の弔問客が訪れてくださった。

 翌日、19日(土)の告別式にも100人以上の方が足を運んでくださった。
 にぎやかなことが好きで、友達が多かった義父らしい送りができたと思う。

 音楽はグレン・ミラーを流した。
 お花入れは、しめやかに、Stardust, Moonlight Serenade, Danny Boyを。
 出棺は景気よく、In The Mood, A String of Pearls, American Patrolを。
 いずれも、義父母が妻やその弟妹が幼いころ、車で出かける際に、カーステレオでかけていたお気に入りの音楽だ。

 お花入れの時は、義父の子どもたちも、義弟のお嫁さんも、孫たちも、姉妹弟たちも、ご近所の方も、友人たちも、みんなが声をあげて涙を流し、ほんとうに心から別れを惜しんだ。僕の葬儀では、こんなに泣いてくれる人はいないだろうな、と思った。

 法名 嘉功院剛正日雅居士
   (かごういん ごうしょうにちが こじ)

 妙久寺のご住職が、法名の意味を、義父の思い出話とともに解説してくださった。
 信徒として、また、夫として、父として、経営者として、地域の担い手として、沢山の功徳を積んで、常に正しいことを言い、行動した日蓮様の信徒、というような意味だと。


 おとうさん

 弥生を、この世に送り出してくださってありがとうございました。
 
 仕事にもつかず将来どうなるかもわからなかった僕と、弥生の結婚を、何もいわず許して下さって、ありがとうございました。

 おかげで、僕も、すばらしい家族と人生を歩むことができています。

 准介や早紀を、いつも、かわいがり、ほめ、はげまして下さって、ありがとうございました。

 下町の濃密な人間関係が、あんまり得意でない僕を理解して、地域や親戚との距離をおいた付き合いに寛大でいてくださってありがとうございました。

 一度も口にだして話したことはなかったけれど、おかあさんと4人の子、そのつれあい、9人の孫、会社の社員、地域の方々。みんなを大切にし、支えてきたおとうさんは、すごかったし、身近で一番そのことを理解しているのは、僕だと思っていました。きっと、僕がそう感じていることを、おとうさんもわかってくれていましたよね。

 おとうさんが逝ってから、送りを終えるまでの約1週間で、池谷家は、あらためて家族の大切さをおもい、結束を固めたと感じています。僕も、本当に池谷家の一員になれたような気がしています。

 あとは、みんなでしっかりやっていきます。

 おつかれさまでした。どうぞ、安らかにおやすみください。

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June 01, 2012

11年目の6月1日

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5月は、結局、2しか記事を書けなかった。
妻の父が逝った。
この件は、改めて、書くことにしよう。

母を見舞った。
欲しがっているときいたハンカチを買っていくと喜んでくれた。

月があけて、今日は、事務所の創立記念日。
11年間、どうにかこうにかやってきて、今年の6月1日も、みんなに、わずかでも賞与を支給することができた。

みんなありがとう。

お礼に日本のフォークシーンが生んだ最高の名曲をひとつ。

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