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September 27, 2013

被災地陸前高田へ(3)〜巨大防潮堤について

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すっかり間があいてしまいました。

今日は、陸前高田で進められている巨大防潮堤について。
以下、数字は概数(メモ取りきれなかったので)とご理解ください。

陸前高田では、今回の震災を機に、巨大防潮堤を建設することが決まっています。
高さ12.5メートル。
3階建てのビルほどの高さです。
街からは海はまったく見えなくなります。
刑務所の塀、と呼ぶ人もいます。

この計画には、いくつもの疑問があります。

まず、手続き。
住民の意向を反映するための手続きが踏まれているようには見えません。
一応、説明会は開催されたようですが、反対の人、疑問を持つ人には出席の機会が与えられたかどうか、よくわかりません。

内容。
3.11における津波は、16メートルを超えました。
それなのに、今回の防潮堤は12.5メートルです。
それじゃあ、3.11並の津波が来たら意味ないじゃないか、という意見に対しては「3.11は1000年に一回だから。次はこれくらいで大丈夫」といわれるそうです。
3.11では、防潮堤の下の地面が液状化して、防潮堤の高さ自体が下がってしまいました。そのことについての対策はありません。

防潮堤は、1市町村で作ればよいというものではありません。
沿岸部にびっちり作らなければ効果がない。
それなのに、陸前高田のお隣の気仙沼は、今のところ防潮堤は作る予定がありません。
陸前高田の海岸は海水浴場であったのに対し、気仙沼は漁港。
防潮堤などつくったら、水産業が壊滅するからです。

防潮堤があるから安心という考え方が、尊い命を失わせることになってしまった、ということもあります。案内をしていただいたKさん(後にご紹介します)のお母さんも、Kさんが「逃げるぞ!」と迎えにいったら「堤防があるから大丈夫。逃げないよ」とおっしゃり、それを無理矢理に高台にお連れして難を免れたそうです。各地で、防潮堤があるから津波恐れるにたらずという意識が広まっており、被災が拡大したという意見もあります。

冒頭の写真は田老町にもともとあった防潮堤で、これがあるから大丈夫といっていましたが、まったく何の役にも立ちませんでした。

巨大防潮堤も、ふだんは水門をあけています。津波の脅威が生じてから、消防団員が水門を閉めに行かなければなりません。それは、生命の危険という観点だけからいっても、事故の起きた原子力発電所で作業するよりも危険かもしれません。

現地で数十分お話しを聞くだけでも、こんなに様々な疑問がある巨大防潮堤が、十分な議論も経ず、500億円という費用をかけて建設されることが決まってしまっています。

津波のパワーは、1平方メートルあたり、10トントラックが100台ぶつかるほどのものです。
こういうものに人間が土木技術で対抗するのが正しいあり方でしょうか。
自然の脅威を素直に認めて、500億円という予算があるならば住民と商業施設の高台移転のために、また、地震が起きたときにいかに行動するべきかという防災意識を高めるために使い、海の生態系を維持するのが正しいありかたではないか、という意見を述べている人たちは被災地の地元にも沢山いらっしゃいます。

しかし、防潮堤建設のための予算と高台移転のための予算は、所管がちがうということで取り上げられることのないまま、既成事実が積み重ねられています。

そして、日本の太平洋岸をすべて巨大防潮堤で覆おうというような施策が進められようとしています。

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September 16, 2013

被災地陸前高田へ(2)〜被災ローンについて

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 陸前高田レポートの2回目、今日は、ご自身も被災された武蔵和敏さん(仮設住宅連絡協議会 副会長)のお話しをきっかけに、被災した方々の住宅ローンの問題について書きます。武蔵さんのお話はもっとリアルなものでしたが、私の判断で少し一般化して書きます。

 説明については東北弁護士会連合会の資料に依拠しているところが大です。

 今回の震災では、住宅ローンを抱えて被災した方の数は東北三県で少なくとも7380名(そんなに少ないのか、という疑問がありますが、とりあえず前に進みます)。

 数千万円におよぶローンを抱えたままでは、生活再建はできない。
 そこで「個人版私的整理ガイドライン」による被災ローン減免制度の運用が2011年8月に開始された。
 そのための予算が10.7億円つけられた。
 この制度によれば、破産や民事再生手続きをとらずに債務の減免を受けることができ、いわゆるブラックリスト(信用情報機関への事故情報の登録)にも載らず、クレジット・カードの使用も継続できるというメリットあるはずだった。

 ほぼ2年経った2013年6月にどうなっているか。
 相談は4280件あった。
 しかし、金融機関との話し合いが成立して減免を受けられたのは、わずかに393件、期待された成立件数の5%程度でしかない。

 なぜこんな状態なのか。
 そもそも周知が不徹底で。この制度を利用しないで条件変更をしてしまった債務者が多数いる。

 機関の構成と運用に大きな問題がある。
 審査を受け付ける「個人版私的整理ガイドライン運営委員会」の担当者は銀行からの出向者が多く、債務者の生活再建より、銀行の債権回収を優先してしまっている。
 ガイドラインによれば認められるはずの返済計画であっても「金融機関が納得しない」という理由で送付してもらえない。
 質問をしても「説明義務はない」としてとりあわない。
 被災者の側に立って返済計画を立案する「登録専門家」を勝手に解任したり、付け替えたりもする。
 もはや制度の目的が何であったかがわからなくなってしまっている。

 武蔵さんご自身も、制度の硬直な運用に苦しまれた方である。
 しかし「こんなことでもなければ、弁護士さんと知り合う事なんて一生なかったですよ。テレビで見る弁護士さんは、とっつきにくそうな人が多いけど、親しく話してみるとみんな気さくな人なんだね!」と、明るく笑い飛ばしておられる。

 武蔵さんからは、この後、12.5メートルの巨大防潮堤計画についてのお話しを伺った。
 その件は、次に。

 

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被災地陸前高田へ(1)〜遠野まごころネット

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 9月14日(土)〜15日(日)、東関東大震災の被災地陸前高田(岩手)を訪ねてきました。

 東京で接する報道は、福島第一原発のことに偏っていますが、福島以外の被災地も復興にはほど遠い状況にあります。

 最初に訪ねたのは、ボランティアによる被災地後方支援の要として尽力されているNPO法人
遠野まごころネット」さん。

 顧問の荒川栄悦さんと事務局長の佐々木政洋さんからお話しを伺ってきました。

 岩手県遠野市は、津波による甚大な被害を受けた宮古・山田・大槌・釜石・大船渡・陸前高田などの沿岸地域のどこへも、山をひとつ越えればいける扇の要のような位置にある。
 その地理的状況を生かし、内陸と沿岸を結ぶ、後方支援の拠点として活動してきた。

・ 被災地へ赴き、現場を見て、被災者からの聞き取りを通じての現状把握。
・ 情報と物資の提供、ボランティアの派遣、産業再生・復興企画立案などの直接支援。
・ 全国から集まる1日650人にものぼるボランティアへの宿泊場所や仕事場所のコーディネートなどの間接支援など。

 被災地のいま。
 震災から2年半経った現在においても、仮設住宅に住む人の90%は動けないまま、狭い仮設での生活を続けている。ちゃんとした住居へ移転するのは簡単なことではない。
 もともとリアス式海岸の沿岸では平地が少なく、その平地がことごとく被害を受けた。
 そこで、高台移転が企図されているが、行政が土地を買収しようとしても、相続登記がなされていないなど権利関係が複雑で簡単には事が進まない。資材は高騰し、建設・建築労働者は不足している。商業地をどこかにまとめるといっても、意思統一は簡単なことではない。もちろん、被災者自身が失った家のローンを負っており、仕事を失っているなど、資金調達も簡単ではない。
 そうした中で、こころ折れて自ら命を絶つ人も少なくない。それも、仮設住宅においてリーダー的な立場を担っていた人が突然に、ということがある。表に出さないだけで、被災者のこころの中は変わらない。

 直接支援活動の一例。
 津波で大きな水産加工工場が流された。そして800トンの冷凍サンマ(一説にはその3倍の量があったのではないかともいう)町中に散乱した。4月下旬の好天続きで腐り、ウジがわき、悪臭がたちこめ、蠅が大量発生する。先端の鋭利な瓦礫によって怪我をする人もでる危険な中、一匹づつ手作業で取り除いた。それだけでは、終わらない。サンマを取り除いた後、瓦礫ばかりを見ていてはいけないと「サンマを取り除いたあとに花や野菜を育てよう」と提案する。腰の重い男性たちを、妻たちが叱咤して、地中の瓦礫を取り除き、ヒマワリの種をまき、トマトやほうれん草を植え、麦を育てた。その場所が被災者の交流の場所にもなった。

 全国からのボランティアについて。
 一番多かった2011年のGWには、1日650人に及んだ。
 これらの人たちすべてに宿泊と仕事の場所を提供するなどのコーディネートをしてきた。
 送り出したボランティアは累計8万人におよぶ。手取り足取り面倒を見るのではなく、ボランティアの自主性を尊重する手法でトラブルもほとんどなく運営してきた。
 震災から2年半がすぎて、やってくるボランティアの数も減ってきている。冬の寒さが厳しいときには20人を切っている。しかし、まだまだするべきことがある。被災地のことを忘れないで欲しい。

 仕事をつくること。
 復興がなかなか進まず子育て世代が地元を離れるケースが多くなっている。
 地元に仕事をつくることが必要と考え、いろいろなプロジェクトを企画している。
 
 子どもたちへの支援。
 震災の年のクリスマスにサンタクロース400人で1万8000件のプレゼントを配った。そのために募金を募ったところ予算よりも多く集まったので、それを基金として進学する子どもたちに返済不要の奨学金「まごころサンタ基金」を送っている。これからも継続していく。

 行政からもさまざまな事業を受託し、費用の支給を受けているが、使途を定めない一般経費の額があまりにも少ない。1000万円の事業で20万円〜30万円しか自由裁量で使えない。これでは機動的な実態にあった活動ができない。基本的に、官が民間団体を信用していないと感じる。役所も「前例がないからできない」というのではなく、前例を自分たちでつくる、という気持ちで復興に向けて民間団体を活用してほしい。そのためには、行政機関のリーダーの覚悟が必要だし、会計検査のあり方についても再考が必要だ。

 概ね以上のようなお話しを伺った。

 インフラが整った東京でデスクワークに携わっているだけの自分には、本当に頭の下がる話ばかりであった。重たい話も、時に笑顔を交えて、懇切丁寧に語ってくださり、帰りには我々ののるバスのところまできて、大きく手を振って笑顔で送ってくださったのが印象的であった。地に足の着いた活動というのはこういうことだと感じた。

 震災直後の「ブーム」が去ったこれから、自分がどう関わっていくかを考えるよいきっかけになった。
 次回は「仮設住宅連絡会」副会長の武蔵和敏さんのお話しです。

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September 07, 2013

『日本兵を殺した父』を読んで

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安倍政権は自民党の党是として憲法改正をして、自衛隊を軍隊にして、海外で武力行使をできるようにしたいのだそうだ。とりえあずは、憲法9条の解釈変更をして、集団自衛権(要するに同盟国であるアメリカを守ることは日本を守ること、という解釈)の行使として自衛隊が海外で武力を行使することを容認しようとしている。

どんな政治的意見を持つのも自由だが、そのような主張をする方は、この本を読んでからにしてもらいたい。

原題を訳すと『マリガンを帰還させる 「よき戦争」の裏側』というようなことになろうか。
著者の父は金属加工の仕事に明け暮れ、文字どおり「身を粉にして」働いたが、ときどき、自分の感情を制御できなくなり、怒りを爆発させた。著者は成長し、父の制御できない怒りの背景に、父の太平洋戦争での過酷な経験のトラウマがあることに気づく。そして、父の死後12年かけて、さまざまな資料を渉猟し、父と同じ中隊に属していた(みな80歳を過ぎている)人たちを訪ねて、あの戦争で、前線の一兵卒たちに何が起こったのかを明らかにしていく。
そして、最後にオキナワで「父が殺した日本兵」の遺族を訪ね、戦友のマリガンがなくなった場所を探す。そして、著者がみつけたものは、、、。

本書は、4部構成である。
1部は父と家族の歴史、
2部は太平洋戦争でグアムとオキナワで起きたことの概説、
3部は父の同僚であった12人の海兵隊員のインタビュー、
4部は著者のオキナワへの旅。

なんといっても圧巻は3部で語られる海兵隊員のことばだ。
現場を知らない将校たちが立てた作戦を「何も考えず」に遂行することだけを要求される兵士たち。
昼夜を問わず砲撃、銃撃、草むらから飛びだしてくる敵兵の攻撃(時には味方からも)にさらされ、人を殺し、仲間が殺され、自らも負傷し、略奪し、略奪される。
死者、負傷者、内臓と血、酒、吹き飛ばされた草木の臭いが入り交じった考えられないほどの悪臭の中、グアム・沖縄の灼熱の太陽の下、両手に手榴弾を握って這い、排泄物と死体を乗り越えながら、前進をし、穴を掘りつかのまの休息を取る。
しかし、その穴にもいつ手榴弾が投げ込まれるか、燃料を流し込まれ火をつけられるかわからない。
そうされないために、敵の壕に火炎放射を行う。
そんな状況に長い間さらされ、人を殺すならなるべく苦しんで死ぬような殺し方をしたいと考えるようになる。
軍法会議にかけられれば銃殺とわかっていても、投降した日本兵・民間人・乳幼児を殺し、女性を犯し、略奪に及び、止める者がいれば、仲間をも殺す(これは、米兵に限ったことではない。オキナワを含め、戦地において民間人・女性に対して、日本人兵士の振るまいが、ひどかったことは、よく知られたことだ)。

こうした地獄と呼んでよい経験は、運良く帰還できたとしても、ずっと(元)兵士たちを苦しめ続ける。
全身の傷、取り除けない箇所に入り込んだ砲弾の破片。
そして、粉々に破壊された心の安定。わずかな物音にも「100メートル飛び上がる」ほど驚いてしまう心、制御できない怒り。

以上に述べた「最前線の兵士の実態」はアメリカにとっては過去のことではない。
その後も、朝鮮で、ベトナムで、アフガニスタンで、イラクで、そしてもうすぐシリアで同じことを繰り返そうとしている(ひどいのは、シリアでは地上戦はしない、といっていることだ。自らの犠牲はなしに、相手を殺戮することだけをしようとしている)。

海外に兵を送るということは、そういう状況に我が国の自衛隊員を、そして、いずれは国民を送るというだ。
戦争の実体験のない連中が、無知と無教養、想像力を欠如させたまま進めようとしていることの本質は、そういうことだということを、議論の大前提においてもらいたい。

最後に、本文205ページから。戦死した戦友ラルフの姉が上官フランク・ハイグラーに当てた手紙の内容を抜粋する。

《あなたのお手紙にあった「部下たちは無駄死にではありませんでした」というくだりだけは同意しかねます。ラルフを失った悲しみをまだ乗り越えていないせいもありますが、私は彼の死は無駄だったと思います。あの子やほかの兵士たちが死んだことで、何ひとつ達成されたわけではありません。世界はより良い場所になるどころか、日々堕落が進んでいるように思えます。》

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September 04, 2013

ワークライフバランス

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1日の仕事を終えて、表に出る。
まだ、少しだけ空に明るさが残っていて、昼間の酷暑はゆるみ、風が吹き抜ける。
夜の予定は何もなく、あとは妻とメイと夕食だ。

どこかの小学校で「あなたにとって幸せとは何?」というアンケートを取ったところ「家族そろってごはんを食べること」という回答だったそうだが、まったく正しい。

24時間働けだの、外へ打って出ろだの、うるさいよ。

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September 03, 2013

母86歳

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今日は、9月3日(火)。
昨日、埼玉・千葉で竜巻がおこり、大きな被害が出た。
被害に遭われた方、お見舞い申し上げます。

空は秋の色に変わったが、地上近くは早朝からどんより澱んでいる。
8月下旬は、相変わらずの暑さに、あらゆることを抑え気味にしてきた。

8月最後のイベントは、8月31日(土)。
母の誕生日を祝うために娘と帰省してきた。
5時過ぎに東京を出て、10時過ぎに入所している「こころの丘」についた。
近くにフランスでパン作りを修行された「あきこさんの店」があり、そこのテラスで昼食を食べようと出かけたが、あまりの暑さに退散。結局、パンを買って帰り、こころの丘の母の自室でたべることに。

午後は雑談したり、昼寝をしたり。
夕方から、こころの丘の夏祭り。
屋台の出店に職員のみなさんを中心とする演し物。
男性職員の気合いのはいったソーラン節にねぶた祭風御輿。
日々の介護職にくわえて、これだけの準備をされるのに、どれだけ時間と労力をかけられたか、と思うと、頭が下がるのみ。

雨が降りそうだったので、進行は早められ7時過ぎには終了。
日帰りで東京へ帰る。1日で往復700キロの道程。
中津川インターチェンジから中央高速に乗ると激しい雨になった。
往路はほとんど寝ていた早紀が談合坂SAまでずっと運転してくれる。
親しい友だちの恋バナ?をしゃべりっぱなし。

コーヒーを買い、給油をしようとSAに寄ったのに、スタバが際どいタイミングで閉店。
そのことに気を取られて、娘も自分も給油を忘れ、八王子の手前で航続可能距離が30キロを切ってしまう。

国立で降りて、20号沿いの店で給油。
娘を蒲田に送りとどけて、12時過ぎに帰宅。

母の誕生日は昭和2年8月30日 満86歳
だが、最近「本当は、8月31日だ」といいだした。???
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