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January 30, 2014

兄の記憶(4)高校時代



 兄は岐阜県一の名門校、県立岐阜高校へ進学した。
 岐阜高校のある岐阜市は岐阜県の西に位置し、我が家のある明智町は東南のはずれにあって通学はむりで、兄は高校から実家を離れて岐阜市で暮らすことになった。
 岐阜市には父の叔父がいて、その推薦で「力行館」という全寮制のような施設に入った。
 しかし、水が合わなかったらしく、どうしてもそこでは暮らせない、と文字どおり「泣き」が入って、施設を出て、賄い付きの学生下宿に移り住んだ。
 
 進取の気性に富だ母は、明智町で初めての女性ドライバーになり、時々、兄を「慰問する」と称して、明智から岐阜まで車を飛ばした。

 記憶にあるのは兄が木刀を持って歩いていたこと。
「散歩のときに、犬がいると怖いからだねえ」と母がからかっていた。
 母が何を差し入れていたのかなどは、僕の関心にはなかった。
 ただ、2時間近く車に乗って、遠い街へ行き、いつも母と兄と近くのお店に入って食事をした。
 お寿司屋さんで「ウズラ卵の軍艦巻」をたべた。
 東京では、ほとんど見かけないものだが、とてもおいしかった。

 当時の僕は、線が細く、極端に動物を怖がった。
 それを克服させるべく、母は僕に小型犬の狆を飼ってくれた。名前はキャブ。
 あるとき兄の慰問にキャブを連れて行ったら兄がずいぶん不機嫌になったらしい。やはり犬がきらいだったのか。
 
 ある時、母はデパートでキャブのために「犬のガム」を買った。
 それは、鼻緒付きのサンダルを模したかたちのもので2つセット(一足)で入っていた。

 兄にそれを見せると
「キャブは足が4つあるんだから、2つ足りないじゃありませんか。」
 といった。

 このおかしみは文章ではうまく書けない。
 兄はウケをねらっているのではない。
 兄のスマートさとうらはらの、そういうはずしたところが、周囲の者にはなんともおかしく感じた。
 母はいまでも。そのことを思い出して笑うことがある。

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January 29, 2014

兄の記憶(3)抑制



 兄のことをスマートだったと書いたが、おそらくそれは生来のものではない。
 もともと人づきあいが得意なほうではなかったと思う。

 幼い頃に実の母とは離別した。
 その後、両親は長兄と次兄を叔母(父の妹)夫婦に預けて東京へ出たりしたこともあった。
 実の父母と別れ、父は新しい母と姿を消し、叔母の家で暮らさなければならなかった兄は、人との距離を慎重に測りながら生きる術を身につけなければならなかったのではないかと、いまにして思う。「家族」といわれる関係ならば許されるかもしれない「感情の爆発」のような表現を、兄は封印して生きなければならなかったのではないか。

 そんな兄がたった一度だけ僕に向けて怒りをむきだしにしたことがあった。

 僕が小学校の3年生くらいだっただろうか。兄はもう大学生だったと思う。
 夏休みに高校野球の甲子園大会をテレビ観戦していた。
 地元岐阜県代表は県立岐阜商業高校だった気がするが、かなり上位まで勝ち進み次は準決勝へ進めるか、というような試合を、兄と僕はふたりでテレビ観戦していた。
 接戦が続き固唾を呑んで9回の攻防を見ていたが、県立岐阜商業高校は惜敗した。
 僕は悔しくて、おもわず「ちぇ、負けやがって」とつぶやいた。
 それに対して、兄は突然に顔色を変えて叫び、僕の足を平手で叩いた。

「なんてこというんだ! あの人たちは一生懸命がんばって負けたんだ。立派だったんだ。あの人たちに向かって謝れ!」

 僕はそれまで、兄から怒られたことも叱られたこともなかったから、大泣きしてしまった。
 テレビに向かって謝ったかどうかは覚えていない。

 僕に対してであれ、他人に対してであれ、兄が感情をむき出しにしたのを見た、というのは、生涯、ただ一度、このときだけだった。

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January 28, 2014

兄の記憶(2)スマート



 兄はスマートな人だった。

 中学高校を通じて、岐阜県を代表する秀才だったはずだ。
 兄の優秀さは、教師の間には知れ渡っていて、10年後に中学生になった僕にも先生方から「崇雄君の弟か。それなら優秀だ。」と声をかけられることが、しばしばあった。
「崇雄の弟なのに、どうしてもっとがんばらないんだ!」といわれることもあった(笑)。

 模擬試験の成績から東京大学文科一類現役合格まちがいなし、といわれていたが果たせず、国立二期校である東京外国語大学ドイツ語科に進んだ。
 教師は「もう一度チャレンジしたら確実に入れる」と浪人することをアドバイスし、親もそれを望む気持ちがあったかもしれない。しかし、兄は「受験勉強はもういいですよ」といった。

 大学ではグリークラブに所属して男声合唱を楽しみ、語学力を生かしたアルバイトにいそしんだ。
 強く記憶にあるのは冬季オリンピック札幌大会で通訳や場内アナウンスをしていたことだ。
 当時のフィルムを探せば、兄が英語やドイツ語で、スキーのジャンプ競技の飛距離をアナウンスしている声がきこえるはずだ。まだ小学生だった僕は、誇らしい気持ちでテレビを見つめていた。

 大学では学生運動にも少しコミットしたみたいだけど、このことについては別に書こう。
 兄は5年かけて大学を卒業して三井物産に就職した。

 ビジネスマンとしての兄については、あまり知るところがない。
 語学研修生としてワルシャワに派遣されポーランド語を学んだ。
 デュッセルドルフに10年近く滞在して石油化学プラントの輸出に携わった。
 沖縄支店長。子会社の代表取締役。そして定年。僕が知るのはそのくらいのこと。
 定年後は、家庭裁判所の調停委員、語学学校の日本語教師をしていた。
 
 兄はスポーツにも長けていた。
 幼い頃は野球。長じてテニス、スキー、ゴルフ。選手になるようなことはなかったが、楽しみでするにはかなりのレベルになっていた。テニスやゴルフには何度か誘われたが、僕のレベルが低すぎて一緒に楽しめなかった。そのほか、ダイビングやウインドサーフィンもしていたらしい。

 音楽は聴くのも演奏するのも好き。
 大学でのグリークラブのほか、ギターを弾きながら和洋のPOPSを歌った。
 沖縄支店長時代に三線を覚えて、近年は家族の集まりがあると必ず三線を持ってきて、食事の後半に
「じゃ、そろそろ演りますか」といって沖縄の歌を歌った。兄との音楽に関わる交流は別に書こう。

 いつの頃からか料理をするのも趣味になって、みなで集まると1品つくってくれていた。
 牡蠣のソテー。豚肉とトマトのグリル。おいしかった。
 それと関係があるのかわからないが、地域の市民農園のメンバーになって野菜作りを楽しんでもいた。

 兄がスマートだというのは、こうして多才だったからだけではない。

 兄は、どんなことにも適度な距離を取って接していた。
 仕事のために私生活を犠牲にするような様子はみじんもなかった。金儲けや出世のためにガツガツ働く人について口に出して何かいうことはほとんどなかったが、兄の暮らしぶりそのものが、批評的だった。
 スポーツ、音楽、料理、家庭菜園にしても、高価な道具や楽器にお金を注ぎ込んだり、グルメをきどったりすることもなく、バランス良く楽しんでいた。

 兄と会った後、僕の妻はいつも「崇雄兄さんは人生を楽しんでるね」といっていた。
 子どもたちにとっては、優秀だけど怖いところもいかめしいところもない、いつもそこはかとないユーモアとウイットをたたえている優しいおじさんだったと思う。

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January 23, 2014

兄の記憶〜兄が一人暮らしを始めるまで

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↑兄の家で通夜・葬儀の準備。ご近所の方が届けて下さった白花豆のおこわをいただく。

 兄と僕は、母がちがう。
 父が、最初の結婚をして、長兄の崇雄、次兄の章をもうけて離婚することになった。
 その後、父は、やはり最初の結婚に破れていた僕の母と結婚して、僕が生まれた。

 父母の離婚と再婚のいきさつについては省略して、兄とのことを書こう。

 兄は昭和24年11月23日生まれ。
 僕は、昭和34年3月7日生まれ。
 9年半の歳の差がある。
 その上、兄は、高校生になると一人暮らしを始めた。
 僕が小学校に上がる頃には、兄は家にいなかったのだから、一緒に暮らしたという実感があまりない。

 一緒に暮らしている頃のかすかな記憶は、兄がきびしく自分を律する生活をしていた、ということだ。

 帰宅すると2階の部屋にいって勉強する。
 6時になると降りてきて、ひょっこりひょうたん島を見ながら夕食を取る。
 6時半頃夕食は終わる。
 7時まで休憩して過ごす。
 7時のニュースの始まりの音楽が流れると2階に上がって勉強する。
 きっかり9時まで。
 9時になると降りてくる。お茶をして、お風呂に入る。
 お風呂からでたら、また勉強を始め、11時になったら就寝。

 うろ覚えけれど、そんな生活を規則正しく送っていたようだ。

 10歳歳下の僕を、いじって遊ぶというようなことは、ほとんどなかったように思う。

 わずかに記憶があるのは、我が家では「少年マガジン」を毎週買っていて、僕は字が読めないので、兄に読んでもらっていた。そうするうちに、自然に字を覚えた。
 
 一度、相撲遊びをしていて、僕が床の間の角に眉のふちをぶつけて3針ぬう怪我をした。
 たくさん血が出て、兄は母(兄にとっては義母、当時は知らなかったが)に、「ぼくのせいじゃないよ」といっていたことを覚えている。

 こんな記憶も、兄が家にいるときの記憶なのか、一人暮らしを始めてから帰省したときの記憶なのか、あまり定かではない。

 ともあれ、9歳と半年歳の離れた兄と僕は、じゃれ合って遊ぶようなことは、まったくなかった。
 それが歳の差のせいなのか、兄の対人的な距離の取り方の結果だったのか、いまとなってはわからない。

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January 22, 2014

長兄崇雄逝く




平成26年1月22日 午前6時頃 武蔵野赤十字病院
クローバー棟4階 436号室から

 今朝4時15分、長兄の近藤崇雄が亡くなった。
 まだ64歳だった。

 平成19年10月30日に父が亡くなり、母が倒れ、妻の父が亡くなり、妻の母が倒れ、妻が、、といろいろなことが続く。僕ももう54歳で、そういう年回りといえば、それまでだが、兄が亡くなったことは、父母の代の弔事とはちがう重みがある。

 九つ歳のはなれた兄だった。
 子犬同士がじゃれ合うような関係はまったくなかった。
 とても優秀で、どう逆立ちしても追いつけない目標だった。

 反発したことはないが、距離をおいて、同じ土俵に立たないようにしたきた気がする。だからといって、こちらの領域に踏み込んでくるような兄でもなかった。でも、僕は、いろんなところで影響を受けていたはずだ。

 2年前に、Ⅳ期の肺がんが見つかった。
 2年間、泣き言はひと言もいわず、取り乱すこともなく、最後まで知的に、冷静に癌と対峙して、今日、旅立っていった。

 子どものころ、9歳ちがうといえば、もう完全に別の世界に生きる人だったが、64歳と54歳となれば、そうでもない。共通の趣味は音楽だったから、これから、いろんな機会に一緒に演奏し、呑みかつ語りたいと思ったりもしたが、それはかなわなかった。

 これから何度かは、幼いころからの、兄との関わりを記そうと思う。
 その事は、僕の生きてきた過程の一面を照らすことにもなるだろう。
 

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January 14, 2014

冬の空2014



1月14日(火)の朝の空

急成長しているC社を訪れ、事業全体に関わるお話しを伺い
当事務所とその関係者がいかに関われるかを話し合う
実りあるお話しができたと思う
よい方向に発展することを期待する

その後、武蔵境で午後を過ごす

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January 12, 2014

3連休 テキサス 白菜鍋

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 3連休。お正月9連休。5日働いてもう3連休。
 11日は、朝から「読み書きクラブ」、それから新宿でMさんにアドバイスしてもらいつつ、みさきの家のオーディオ用に中古アンプを購入、それから野口体操。

 12日は、朝食後、思い立って、大学時代を過ごした国立へ。
 イタリア小僧でパスタか、テキサスでハンバーグか迷ったが、妻の希望によりテキサスへ。
 ハンバーグ、メキシカンサラダの定番のほか、学生時代は、なかなか食べられなかったステーキも注文。30年経っても変わらない味と雰囲気を堪能する。

 それから武蔵野市へ行って夕刻まで滞在。
 この件については、追って記す。

 移動中に山下達郎さんのサンデーソングブックを聴いていたら、なんと、ドラマーの青山純さんも12月にお亡くなりになっていたことを知る。まだ56歳だったんですね。達郎さんも、佐藤準さん、大瀧詠一さん、アラン・オデイさん、青山純さんと縁の深い人が亡くなってつらいでしょうね。

 ということを話しつつ帰路につく。

 夕食は、白菜鍋。
 なべに白菜を敷き詰める。
 豚肉の薄切りを乗せる。
 大蒜の薄切りを乗せる。

 これを繰り返して、白菜・豚肉・大蒜の数層をつくる。
 たっぷりの日本酒を入れて、くたくたになるまで煮る。
 ポン酢で食べる。
 シンプルだけどとてもおいしい。

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January 05, 2014

年末年始 個人的な大瀧詠一さん追悼

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 あけましておめでとうございます。
 
 昨年末からのあれこれ。
 9連休もひまなし。

12月28日
 映画観に行った。
「ある食肉店のはなし」
 すばらしい映画。
 その後、2013年最後の野口体操のクラス。
 体操のほか、歩き回りながら唄を歌う。楽しかった。

29日
 みさきの家へ。掃除やら。

30日
 夜、子どもたちがそれぞれのパートナーと来る。
 あれこれ準備。

31日
 息子の彼女はドイツ人 娘の彼氏はアメリカ人のため
 ふたりに日本の年末年始を経験させるべく
 お歳取りの食事
 紅白歌合戦 視聴
 除夜の鐘と初詣

2014年 元旦
 引き続き
 朝 おとそ お雑煮 おせち
 午後 義母 義妹が合流 
 みな食傷気味(笑い
 夜、子どもたちはそれぞれの場所へ

2日
 肩ねちがえ メイのせいだが詳細ははぶく
 朝、自然薯でとろろ芋
 その後、掃除して東京へもどる

3日 
 岐阜の母のところへ 
 特別養護老人ホームから連れ出して
 かわい食堂で昼食 ひれ味噌カツを完食 他の誰より食欲あり
 かんぽの宿恵那へ
 夕食も完食

 夜、母の面倒は、妻との子どもたちがみてくれて
 私は、別系統の兄と四方山話

4日
 母を施設に送り届けて帰京の途へ
 昨晩は、妻と子どもたちは母の世話であまり寝られなかったらしい
 ほとんど運転を引き受ける
 
 車中で、大瀧詠一さんの個人的な追悼のために
 大瀧詠一マイセレクション トニー谷特集を聴く

 こちら http://youtu.be/XFYxijge0gU

 妻も息子も起き出して涙を流して笑いながら高速道路をひた走る

5日
 本の整理をしながら大瀧詠一さんのスピーチバルーンを聴く
 漣健児さんとの対談
 高田渡さんとの対談

 いやあ、おもしろいし勉強になる。
 みんな聴け!

 その後、夕刻、妻と義妹とジムへ。
 からだを温め、あちこち伸ばして明日に備える。

 そうこうするうちに年末年始が終わった。

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